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樫本大進&ラファウ・ブレハッチ

 12 月19日、サントリーホールで樫本大進とラファウ・ブレハッチのデュオ・リサイタルが開かれた。
 大進はさまざまなピアニストと共演しているが、ラファウとは初めてである。
 プログラムは、前半がモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ第17番、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第7番。後半がドビュッシーのヴァイオリン・ソナタと武満徹の「悲歌」とフランクのヴァイオリン・ソナタという構成だ。
 このオープニングのモーツァルトのラファウ・ブレハッチの清涼で自然で躍動感あふれるピアノを聴いた瞬間から、即座にふたりの世界へといざなわれた。ピアノの調べに大進のカンタービレな音色が和し、美しく絵画的なデュオが誕生。
 ベートーヴェンではふたつの楽器が「ひとつの声」になり、初共演とは思えぬ呼吸の合い方である。
 後半のドビュッシーが秀逸で、ドビュッシーの静謐で精妙な響きを両楽器がリアルに紡ぎ出し、この時代のパリのサロンで聴いているような感覚をもたらした。なんという至福の時間だろうか。
 最後のフランクは力強く情熱的でありながらも、ラファウのけっして鍵盤をたたかない見事なまでの音量のコントロールに、大進の弱音と強音の見事なバランスが絡み合い、聴き慣れた作品に新たな地平を拓いた。
 終演後、楽屋でふたりに会うと、共演した歓びに満ちた表情を浮かべていた。その笑顔をパチリ。
 この公演評は、「モーストリー・クラック」に書く予定である。

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posted by 伊熊よし子 at 18:30 | マイ・フェイバリット・ピアニスト

藤田真央

 12月12日、サントリーホールで藤田真央ピアノ・リサイタル「Mao Fujita Piano Recital 72Preludes」が行われた。
 これに先駆け、「モーストリー・クラシック」に記事を寄せたので、それを下記に記したいと思う。
 まさに期待通りのすばらしく心に響く印象深いリサイタルで、選曲の妙、各曲の表現の変容、作品への洞察力に深い感銘を受け、藤田真央の著しい成長に心が打たれた。
 とりわけ、矢代秋雄のプレリュードをナマ演奏で聴くことができ、貴重な体験となった。


 藤田真央が「モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集」でソニークラシカルから全世界デビューを果たしてはや2年、待望の第2弾が登場した。ショパン、スクリャービン、矢代秋雄の「24の前奏曲」を収録した「72Preludes」。新たな発見と驚きと斬新性に満ちた新作で、72曲を通して聴くと自然のなかに身を置いたような不思議な爽快感に包まれ、各曲に深い感情が込められた演奏ゆえ3人の作曲家の作品への特別な思い、秘められた感情、生き方が投影された側面までもが伝わってくる。

 ショパンの音楽は美しく繊細でエレガントだけではなく、孤高の精神と音楽への探求心、自己のアイデンティティが強烈に映し出されたもの。強い愛国心、病気に打ち勝つ不屈の精神、音楽に対する一途な愛情を備え、死の直前まで創作力を失わずにひたすら作品を書き続けた。その姿勢からは強靭な精神力の持ち主だったことが伝わってくる。それらを作品から聴きとりショパンの魂に近づくとき、困難な人生を果敢に生き抜き、自己のもてるすべてを作品に託したショパンが浮かび上がる。

藤田真央の演奏はこうしたショパンが各曲に込めた劇的な表現や繊細さ、抒情性、朗唱風、夜想曲風など多種多様な内容を「繊細な美音」で表現し、転調、和声、リズム、動機の反復などに創意工夫が見られ、発見を促す。

スクリャービンの演奏はなおいっそう響きが磨き抜かれ、精神が徹底的に研ぎ澄まされたピアニズムとなっている。この演奏は、スクリャービンを得意としたロシアのウラディーミル・ソフロニツキーの「響きの美学」に通じるものが存在し、リズムの柔軟性と即興性、旋律の気まぐれと情熱と官能性などが花の香りのようなはかなさとうつろいを感じさせ、えもいわれぬ詩情が全編を覆う。まるで幻想の世界へと導かれるようだ。ショパンの涼風を全身に纏い、スクリャービンの木々の微妙な揺れに身を任せ、それが矢代秋雄の驚くべき若書きの前奏曲に移ると一気に視界は開け、小鳥のさえずりにも似たみずみずしく新鮮な空気があたりを満たす。なんという創造性豊かでユーモアとウイットに富んだ作品だろうか。藤田真央は各々の曲に新たな生命を吹き込み、いま生まれた作品のような鮮烈な感覚をもってひとつずつの音を描き出していく。とりわけ第8(バルカロール)が心に染み入る美しさ。これは1212日にサントリーホールでリサイタルが行われる。唯一無二の心に深く記憶される一夜となるに違いない。







posted by 伊熊よし子 at 21:45 | マイ・フェイバリット・ピアニスト

エフゲニー・キーシン

 12月2日、サントリーホールにキーシンのリサイタルを聴きに行った。
 初来日の1986年のときからずっと聴き続けてきたが、当時15歳だったキーシンもいまや堂々たる巨匠となり、風格すら漂うようになった。
 しかし、ステージへの登場の仕方からおじぎ、ピアノに向かってすぐに弾き始める様子など、まったく変わることがない。
 ただ、その演奏は進化と深化を遂げ、聴き手をキーシンの音の世界へと一気にいざなっていく。
 プログラムはベートーヴェンのピアノ・ソナタ第27番、ショパンのノクターン第14番と幻想曲、ブラームスの「4つのバラード」、プロコフィエフのピアノ・ソナタ第2番という構成。
 前半のベートーヴェンもショパンもゆったりしたテンポ設定で、1音1音ていねいに弾き込み、打鍵は深々とし、息の長いうたいまわしが特徴だ。
 後半のブラームスは壮大かつ幻想的な響きのなかに渋さがただよう。ここでは、キーシンの新たな一面を示唆した。
 最後のプロコフィエフが傑出し、ピアノの可能性を探求した作曲家の神髄に肉薄し、ロシアピアニズムの継承者たる奏法を遺憾なく発揮。そしてアンコールもショパン、プロコフィエフ、ブラームスが組まれ、すべてのプログラムをここで完結するというキーシンらしい形をとった。この公演評は、次号の「モーストリー・クラシック」に掲載される。



posted by 伊熊よし子 at 14:34 | マイ・フェイバリット・ピアニスト
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