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ネルソン・フレイレ

 今日は、すみだトリフォニーホールにネルソン・フレイレのリサイタルを聴きにいった。
 このプログラムの原稿を担当した私は、当初の曲目の一部が変更となり、ドビュッシーの「子どもの領分」からヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ」第4番より前奏曲と、同「赤ちゃんの一族」より3曲になったことを知っていたため、ヴィラ=ロボスをとても楽しみにしていた。
 以前、フレイレにインタビューした際、彼は自国ブラジルを代表する作曲家のエイトル・ヴィラ=ロボスをこよなく愛し、世界各地で演奏し、その音楽を広めたいと熱く語っていたからである。
 プログラムはJ.S.バッハの前奏曲やコラールのブゾーニ編から開始し、次いでシューマンの「幻想曲」が演奏された。
 フレイレは「最近、バッハを弾きたい気持ちがとても強いのです」と話していたが、このバッハも心にゆったりと浸透してくる敬虔で平穏で静謐な演奏だった。時折、オルガンを思わせる荘厳で大規模な音色を交え、フレイレらしい祈りの音楽をホールの隅々まで響かせた。
 シューマンの「幻想曲」は、フレイレの巨匠性が存分に表れた演奏となった。彼は、長年来日が途絶えた時期があったが、近年はひんぱんに来日するようになり、いつのころからか「巨匠」と称されるようになった。この「幻想曲」は、そんなフレイレが聴き慣れた作品に新たな風を吹き込むもので、とりわけ第3楽章のロマンあふれる楽想が心に深い印象をもたらした。
 後半はヴィラ=ロボスが演奏され、やはり「血で弾く」というというのはこういうことかと感じるほど、自然体で母国語を話すような演奏だった。
 最後は、ショパンのピアノ・ソナタ第3番が登場。フレイレは、ショパン国際ピアノ・コンクールの審査員もし、ショパンの作品を熟知している。
「私は、ショパンはけっして声高に叫ぶ音楽ではないと思う。最近の若いピアニストは鍵盤をガンガン力任せに叩き、猛スピードで突っ走るような演奏をするけど、私はそのような演奏はしたくない。ショパンの楽譜をじっくり読み、時代を考慮し、ショパンの意図したことに心を配りたいと思う」と話していたように、彼のソナタ第3番は、ショパンの生きた時代の空気をほうふつとさせるピアニズムだった。
 テンポも、リズムも、フレーズの作り方も、そしてルバートも、すべてにおいて作為的なものや余分なものが何もない。私の脳裏には、いつしかショパンの生家、ジェラゾヴァヴォーラの緑豊かな自然が浮かんできた。
 フレイレの演奏は聴き手の想像力を喚起する、まさに一幅の絵のようである。
 帰りは台風の影響で大雨に見舞われながら、電車の遅延などもあったが、心のなかにはおだやかで温かな空気が流れていた。
 これが「音楽の力」なのかもしれない。この公演評は、先日のダン・タイ・ソンとともに、次号の「モーストリー・クラシック」に書く予定になっている。
 今日の写真は、リサイタルのチラシ。この顔を見ているだけで、なんだかなごんでしまうよね(笑)。素顔はとてもシャイで、ポツポツと話し、ペットの話になると、途端に雄弁になるフレイレ。愛すべき「巨匠」である。

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ダン・タイ・ソン

 ダン・タイ・ソンが1980年にショパン国際ピアノ・コンクールにおいて、アジア人初の優勝者となってからはや37年が経過した。この間、彼はベトナムからロシア、日本へと移り住み、その後カナダとフランスに拠点を置くようになり、国際舞台で活躍するようになる。
 久しぶりにリリースされた新譜は、シューベルトの作品集(ビクター)。最後のソナタにあたるピアノ・ソナタ第21番をメインに据え、「アレグレット」「12のドイツ舞曲(レントラー)」という構成だ。
 いまでは国際コンクールの審査員を務めたり、後進の指導にも力を入れているダン・タイ・ソン。このシューベルトは、音楽性と人間性を磨き抜いてきた彼の、現在の心身の充実を示すアルバムとなっている。
 ダン・タイ・ソンの音楽はおだやかな音色とゆったりとしたテンポに彩られているが、その奥に静謐な空気が宿る。このシューベルトも作曲家の思いに寄り添い、孤独感と諦念を潜ませている。
「私がショパン・コンクールを受けたころは、まだやせていてからだができていませんでした。上半身を大きく動かして演奏していたものです。あとでビデオを見てすごく恥ずかしかった。ゆらゆら揺れてばかりで音がまったく安定しない、消してしまいたいくらいでした(笑)。その後、先生に指摘されてピアノに向かう姿勢を直し、筋肉もつくようになり、ようやくスケールが大きくエネルギッシュなロシア作品が弾けるようになりました。ショパンに関しても自然な姿勢で自由に鍵盤をうたわせることができ、リズムもテンポも自在に奏でることができるようになりました」
 そしていま、ピアニスト自身が成熟しないとうまく弾けないといわれる、シューベルトの作品と対峙することになったのである。
「モスクワ時代はお金がなくて食べ物に不自由していたため、太るどころではありませんでした。ピアノは体力を要します。ですからコンクール後にとにかく体重を増やそうと努力し、いまのように太ったわけです(笑)」
 当初は清涼で静謐で平穏な美しい音でショパンを奏でていたダン・タイ・ソン。それが徐々に音が肉厚になり、幅も広くなり、音楽が深淵になっていく。現在はピアノ好きがため息をもらすほど、情感豊かで表現力に富む美しいピアノを奏でる音楽家に成長を遂げた。
 明日は、武蔵野市民文化会館でダン・タイ・ソンのリサイタルがある。オール・シューベルト・プロである。私は明日聴きに行く予定にしているが、22日は紀尾井ホールでもリサイタルが予定されている。
 ナマで聴く、ダン・タイ・ソンのシューベルト。どんな美しい歌が奏でられるだろうか。
 今日の写真は、シューベルトの作品集のジャケット。





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ラファウ・ブレハッチ

 ラファウ・ブレハッチがザルツブルク音楽祭デビューを果たしたのは、2008年8月15日のこと。この記念すべきリサイタルを聴くことができたのは、本当に幸運で、いまでも明確な記憶となって脳裏に焼き付いている。
 当日は、19時半からモーツァルテウムのグロッサー・ザールでリサイタルが行われた。プログラムはJ.S.バッハの「イタリア協奏曲」、リストの「演奏会用練習曲」 、ドビュッシーの「版画」、そしてショパンの「夜想曲op.62」とピアノ・ソナタ第3番だった。
 毎年、ザルツブルク音楽祭のデビュー・リサイタルは注目を集めるが、この年は2005年のショパン国際ピアノ・コンクールの優勝者が登場することで話題を集めていた。
 モーツァルテウムのステージに姿を現したブレハッチは、リラックスしたおだやかな表情を見せていた。やわらかな笑みをたたえながら静かにピアノの前にすわると、即座に「イタリア協奏曲」を弾き始める。
 彼は幼いころから教会のオルガンでバッハを弾いてきた。「イタリア協奏曲」も長年愛奏し、血となり肉となっている作品。輝かしく華やかな第1楽章は主題を前面に浮かび上がらせながら急速なテンポで弾き進め、美しい緩除楽章ではゆったりと独奏ヴァイオリンのアリアを思わせるような歌心を発揮、終楽章ではロンド主題を軽快かつ力強く奏で、オルガンで培った音の厚みを表現した。
 次いでリストの「2つの演奏会用練習曲」「3つの演奏会用練習曲」より「森のささやき」「軽やかさ」「小人の踊り」が軽快なタッチと疾走するようなテンポで奏でられ、さらにドビュッシーの「版画」へと続いた。
 これら前半のプログラムは2007年の日本公演で演奏されたもの。あれから1年が経過し、すべての作品が一層弾き込まれ、磨き抜かれ、作品の内奥に迫る洞察力の深さを示していた。それらはあたかも細部までこまやかな神経を張り巡らして織り込んでいくタピストリーのような繊細さと緻密さを見せ、ホールを埋め尽くした聴衆の集中力を促した。
 真価が発揮されたのは、やはり後半のショパンだった。「2つの夜奏曲」、ピアノ・ソナタ第3番はショパン・コンクール覇者の名に恥じない安定感と説得力のある演奏で、耳の肥えたザルツブルク音楽祭の聴衆から「ブラボー!」の声と嵐のような喝采を引き出した。
「権威ある音楽祭で演奏することができ、とてもうれしい。満員になってよかった(笑)。以前日本で弾いた曲目をより高度なレヴェルにもっていけるよう、練習を重ねてきました」
 翌日のインタビューでは、彼は落ち着いた自信に満ちた表情を見せていた。当時は欧米各地での演奏が目白押しだったが、「年間40回以下に抑えている」と語っていた。じっくりと勉強したいからだという。
 このときのプログラムは、各作品に潜む哲学的な深さ、内面性、有機的なつながりを考慮して選曲したという。実は、この夜初めてポリーニのリサイタルを聴くといっていた。それに触発され、「ショパンのピアノ・ソナタ第2番に着手するかも」と笑っていた。当時はゲルギエフ、ヤンソンス、プレトニョフらと共演の予定がびっしり。ヨーロッパでは、自ら車を運転して回っていた。
 そんなブレハッチは4歳から教会でオルガンを弾き、バッハの音楽に親しんできた。実は、このときに聴いた「イタリア協奏曲」をメインに据えたバッハ・アルバムがリリースされた。「パルティータ第1番」「4つのデュエット」「幻想曲とフーガ イ短調」「パルティータ第3番」が収録され、最後はアンコールのように「主よ、人の望みの喜びよ」(マイラ・ヘス編)で締めくくるという趣向だ。
 ブレハッチの自然で躍動感に満ち、天空に飛翔していくようなバッハは、彼の特質を存分に描き出している。心身が浄化されるような演奏はオルガンの響きにも似て、幸福感に包まれる。
 ブレハッチは今秋来日し、9月30日から10月10日まで全国でリサイタルを開く。バッハ、ベートーヴェン、ショパンというプログラムだ。先日、この来日公演のチラシ原稿を担当した。またひとまわり大きくなっているブレハッチの演奏を聴くことができるのは、本当に楽しみである。
 今日の写真は、バッハ・リサイタルのジャケット写真(ユニバーサル)。



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