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エリソ・ヴィルサラーゼ

 エリソ・ヴィルサラーゼの演奏は、いつ聴いても、どんな作品を聴いても、深い感動が心に残る。
 11月27日にはすみだトリフォニーホールでリサイタルがあり、前半は彼女が得意とするシューマンの「6つの間奏曲」と「ダヴィッド同盟舞曲集」が演奏された。
 何も引かない、何も足さないということばがピッタリで、あるべき音がそこに存在し、シューマンの作品の神髄がひたひたと胸に押し寄せてくる。
 なんという謙虚で純粋で高潔なピアニズムだろうか。
 ヴィルサラーゼはインタビューでも、音楽と対峙する真摯な姿勢をことばを尽くして話してくれるが、演奏もまた揺るぎなく凛としたもので、姿勢を正したくなる。
 後半はオール・ショパン。バラード、ワルツ、ノクターンなど全11曲を休みなく続けて演奏し、余分なものが何もないシンプルな美を放つショパンの世界へと聴き手をいざなった。
 こういうリサイタルは、本当に心に響くものである。何日たっても感動の泉は枯れず、いまだ美しく透明感あふれる水がこんこんと湧き出てくる感覚にとらわれる。
 もうすぐ、2018年のコンサート・ベストテンの原稿の締め切りがやってくる。今年も、もうそういう時期になったのだ。ヴィルサラーゼは、当然のことながらこのなかに入る。あとはどれを選ぼうかな。
posted by 伊熊よし子 at 23:27 | クラシックを愛す

ウィーン・フィル

 11月20日、フランツ・ウェルザー=メスト指揮ウィーン・フィルの来日公演を聴きにサントリーホールに出かけた。
 プログラムはモーツァルトのオペラ「魔笛」序曲で幕開け。ウィーン・フィルならではのまろやかで生き生きとした響きがホールを満たしていく。
 次いでラン・ランをソリストに向かえ、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番が登場。ラン・ランは、以前アーノンクールからモーツァルトの神髄を学んだと語っているが、今回は弱音を重視し、モーツァルトの愉悦の音楽をあくまでも美しく情感豊かに歌心をもって奏でた。
 実は、ラン・ランは2017年11月のサイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルの来日公演のソリストに選ばれていたのだが、左手の腱鞘炎が治らず、キャンセルしていた。
 その前にハンブルクに滞在していたラン・ランに電話インタビューすることになり、あまりに元気がない声に驚いて、「体調が悪いの?」と聞いたところ、左手の具合が思わしくないといっていた。
 そして、ラトル最後のアジア・ツアーのソリストをキャンセルせざるをえなくなった。
 あれからずっと心配していたが、ようやくラン・ランはステージに戻ってきた。このモーツァルトは思慮深く、内省的で、以前のラン・ランとはかなり異なる演奏と化していた。ピアノが弾けない時期に、さまざまな思いを巡らし、音楽が変貌を遂げたに違いない。
 アンコールには、シューマンの「ダヴィッド同盟舞曲集」より抜粋が演奏された。
 後半はブラームスの交響曲第2番。非常に熱気あふれる演奏で、力強く生命力あふれるブラームスとなった。ウェルザー=メストも楽員も汗ぴっしょり。この熱演に拍手がやまず、アンコールは2曲演奏された。
 曲目はヨハン・シュトラウス2世のワルツ「南国のばら」とエドゥアルト・シュトラウスのポルカ・シュネール「テープは切られた」。
 やはりウィーン・フィルのシュトラウスの演奏は、心が高揚する。この夜はラン・ランの見事な復活と、ウィーン・フィルのシュトラウスで帰路の寒さも忘れるほどだった。
posted by 伊熊よし子 at 16:36 | クラシックを愛す

エフゲニー・キーシン

 キーシンの演奏を聴くと、いつも1986年の初来日のときのことを思い出す。それほどこのときの演奏は衝撃的だった。
 彼はステージ脇で「早く演奏したい、早くステージに出たい」といい続け、周囲の人々がそれを止めるのに苦労していた。
 当時、14歳。演奏はまさに「真の天才」を思わせるものでいずれの作品もひらめきに満ち、躍動感と鮮やかな色彩と物語性に満ちていたが、インタビューの受けごたえはシャイで物静かで思慮深い性格をよく表していた。
 あれから32年。キーシンの来日公演をずっと聴き続け、ルツェルン音楽祭では現地でも演奏を聴いた。
 そのキーシンが11月6日、サントリーホールでリサイタルを開いた。プログラムはショパンの「夜想曲」第15番、第18番からスタート。ゆったりとしたテンポを維持し、ひとつひとつの音を慈しむように奏で、ショパンの晩年の熟達した手法をじっくりと披露していく。
 次いで、シューマンのピアノ・ソナタ第3番が登場。これは何度か改訂が施され、「グランド・ソナタ」と命名された大規模な構造を備えている。
 ピアニストを目指したシューマンの多様な技巧と創造性が盛り込まれたソナタで、キーシンの本領発揮となった。第1楽章から第4楽章まで終始緊迫感と集中力がみなぎり、キーシン自身の内面に語りかけるような内省的かつ思索的なピアニズムが全編を貫いていた。
 後半は、ラフマニノフの「10の前奏曲」作品23、「13の前奏曲」作品32より10曲が続けて演奏された。
 キーシンのロシア・ピアニズムを体現する奏法は、昔からまったく変わらない。演奏する姿勢も同様で、どこかなつかしさを感じさせる。
 だが、大きく変容しているのは、その演奏の深遠さである。彼は1シーズンにひとつのプログラムを携え、世界各地を回る。今回のプログラムも各地で演奏しているものだろうが、弾き込むほどに深さが増し、楽譜の裏側まで読み込むような熟成された音楽となる。
 キーシンを聴き続けること―それは聴き手自身の聴き方の変容を感じ取ることであり、また生き方を考えさせられることでもある。キーシンは音楽を通じ、どう生きるべきかを問いかけているように思う。
 初めて衝撃の音楽を聴いてから32年。演奏を聴きながら、さまざまなことが脳裏をよぎった。
 今日の写真はプログラムの表紙。

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posted by 伊熊よし子 at 21:53 | クラシックを愛す
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