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三浦文彰&辻井伸行オンライン・サロンコンサート

  いま、辻井伸行のオンライン・サロンコンサートが毎週のように開催されているが、昨日はヴァイオリンの三浦文彰とのデュオ・リサイタルが初めて登場し、その収録に立ち会うことができた(MUSICASA  20:00開演)。
  プログラムはブラームスのヴァイオリン・ソナタ第1番「雨の歌」と、フランクのヴァイオリン・ソナタの2曲。この作品はふたりが演奏を始めてから何度もいろんなホールで聴いているが、親密的な小ホールで聴く演奏はまた格別で、両者の息遣いまで聴こえるほどだった。
  こうしたライヴ収録の演奏をオンラインで発信していく方法は、いまや世界各地で行われている。ふだんナマの演奏を聴く機会に恵まれない人や、なかなかホールに足を運べない人も視聴することができ、今後も数が増えそうだ。
  三浦さんも辻井さんも、ライヴ発信ということで、かなり緊張したと話していた。
  アンコールはエルガーの「愛のあいさつ」と「真田丸」。当初よりふたりの息は完璧に合うようになり、曲の入りも、何の合図もせずに自然体でピタリと決まる。
  ヴァイオリンとピアノのデュオは、「ひとつの声にならないと聴き手の心に届く演奏にはならない」といわれる難しいジャンル。彼らはまさに「ひとつの声」になるよう、お互いの音を注意深く聴き、さらに自身の音も明確に主張し、音の融合を図っていった。 
  今日の写真は、コンサートの様子(提供avex)。

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posted by 伊熊よし子 at 17:46 | クラシックを愛す

ベートーヴェン「第九」4

  ベートーヴェンの「第九」というと、最後の合唱の部分だけを思い浮かべる人が圧倒的多数だと思うが、実はここにいたるまでのプロセスがとても大切である。
 「歓喜の歌」は絶望や悲劇との戦いの後に到達した世界。「第九」考察の最終回は、そんな作品の曲目紹介をしながら全楽章の内容を見ていきたい。
  これを通し、交響曲第9番の全体像を理解し、人生の縮図を作品全体から読み取っていただければ幸いである。
  そして、ぜひライヴか録音で全楽章に耳を傾けてほしいと思う。きっと深い感動が胸に押し寄せ、ベートーヴェンの真意が伝わってくると思うから…。

 [第1楽章]
  広大な宇宙を思わせる神秘的な力強い旋律が、壮大な交響曲の開始を告げる。これは人生の苦悩や悲しみ、希望やなぐさめなどあらゆる感情が表現されている楽章である。
  ベートーヴェンは自分の生涯を回顧し、人生を戦いにたとえたのではないだろうか。劇的で強いメッセージをもつ、幕開けにふさわしい音楽となっている。
  [第2楽章]
  弦の鋭角的な響きが全体に躍動感を与えている。また、ティンパニの小気味よいリズムも印象的だ。
  これは初演時に大きな喝采をもって迎えられた楽章。衝撃的なティンパニの独奏は、当時の人々を驚嘆させ、アンコールの拍手が鳴りやまなかった。魂が浄化するような美しさと、諧謔の精神が感じられる。
  [第3楽章]
  美しい緩徐楽章で、神への感謝を表すような深い祈りの気持ちが表現されている。やすらかな主題の変奏にはさまれた中間部が特に美しい。
  終わり近くのホルンの長いソロは、この時代としては画期的な用いられ方だった。歓喜を前にしたやすらぎを感じさせ、きたるべき何物かに心の準備を促すようだ。
 [第4楽章]
  プレスト(きわめて速く)のファンファーレから始まる。苦難の人生を振り返る前楽章の主題の回想からスタートし、有名な主題が静かに現れる。
  そしてバリトンによって「おお、友よ、もっと喜びにあふれた調べをうたおう」と明るく、力強くうたわれる。この部分はベートーヴェン自身による歌詞であり、次いでシラーの詩がおごそかに登場する。
  ベートーヴェンはこの詩のなかで特に「人々はみな兄弟となる」という箇所に共鳴したといわれる。ベートーヴェンはここで人類の理想、平和と喜びをうたい上げたかったに違いない。これは交響曲第5番「運命」にも共通している精神で、苦悩に立ち向かう人間が最終的に見出す本来の喜びを音によって表現している。
posted by 伊熊よし子 at 21:55 | クラシックを愛す

ベートーヴェン「第九」3

  1981年の暮れ、ウィーンのコンツェルトハウスの前には「ロブロ・フォン・マタチッチ氏が病気のため、本日の指揮者が交替にになります」の張り紙が出されていた。
  この日の演目はベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付」。急きょ代役に立った若い指揮者は巨匠を聴きに駆け付けた聴衆をがっかりさせまいと必死でタクトを振り、オーケストラも歌手も合唱もそれに呼応し、すばらしい「第九」となった。
  私その日、ベートーヴェンの住んだ家やさまざまな作品を作曲した場所を訪ね歩き、狭く暗い階段や質素な部屋、それを補ってあまりある窓からの美しい眺めなどに心を奪われていたため、最後の合唱の部分ではベートーヴェンの姿がそこに見えるようで胸がいっぱいになり、ついハラリと涙してしまった。
  そして年が明けた1月4日、ウィーンのテレビには「マタチッチ、故郷のザグレブで85歳の生涯を閉じる」のニュースが映し出された。はるばる日本から演奏を聴きに来たちょうどそのときに亡くなるなんて、とても複雑な気持ちに駆られた。年末にはあんなにも崇高で感動的な演奏が聴けたのに、その直後にひとりの偉大な指揮者の訃報を耳にするなんて…。
  いままで多くの「第九」を聴いてきたが、このときの無名の若手指揮者によるナマの演奏が一番心に深く残っている。
  そのときに受けた熱い思いにもっとも近く、端的に「第九」に引き寄せられるのが録音でいえばカラヤン盤(ユニバーサル)だ。それも1983年9月にカラヤンが4度目の全集として完成したものが最高。これはソリストの4人がカラヤンの心情をよく理解し、いわんとすることを的確に読み取って、もてる力を十分に発揮していることはいうまでもない。
  だが、一番驚かされるのはベルリン・フィルがピタリとカラヤンに寄り添っている様子がひしひしと伝わってくることだ。ここまでオーケストラを自在に動かすカラヤンの力に、改めて感服してしまうほどで、いまやこういうカリスマ性をもった指揮者はいなくなったなあと一抹の寂しさも感じてしまう。
  そう、この「第九」はいろいろなことを考えさせてくれる演奏なのである。もちろんベートーヴェンの作品をここまで磨き上げ、研ぎ澄まされた究極の美しさと、壮大で劇的な表情をとことん追求したカラヤンの力量あってこそだが、その演奏を聴くうちに私の心にはさまざまな思いが去来する。ベートーヴェンがいいたかったことを、自分のいままでの歩みに重ね合わせてしまうのた。
  今年も大変なことがいくつかあったけど、来年はきっとそれを乗り越える何かを見つけようとか。よしっ、くよくよしていないで前向きに考えようとか。要するにエネルギーが湧いてくるのである。
  カラヤンの目も覚めるようなスピード感あふれる演奏が、人に生きる力を与えてくれるのだろう。こういう「第九」こそ、ベートーヴェンが目指した本来の主旨にのっとっているのではないだろうか。
posted by 伊熊よし子 at 20:54 | クラシックを愛す
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