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アレクサンドル・タロー

 アレクサンドル・タローのインタビューは、そのつど記憶に残るもので、特にラモーやクープランの録音をリリースしたころのことが印象深い。
 そこで「インタビュー・アーカイヴ」の第67回は、タローの登場。ショパンの「ワルツ集」が出たころだった。

[婦人公論 2007年12月22日&2008年1月7日号]

完璧主義者の表現力

 チェロのジャン=ギアン・ケラスのよき音楽仲間であり、録音でも共演しているフランスのピアニスト、アレクサンドル・タローが10月末に来日、緻密で成熟したテクニックと、深い表現力に満ちた演奏を披露し、ピアノ好きをうならせた。
 1968年生まれ。パリ国立高等音楽院を卒業後、ミュンヘン国際コンクールをはじめとする数々のコンクールに入賞し、ソロ、室内楽の両面で活躍するようになる。
 とりわけフランス作品を得意としているが、名前が広く知られるようになったのは2001年にリリースした「ラモー作品集」。18世紀前半にパリで活躍したジャン=フィリップ・ラモーの鍵盤作品を、貴族的でオペラティックな雰囲気をたたえながらも、近代的な奏法、斬新な解釈で演奏、ヨーロッパで「タロー現象」と呼ばれるブームを巻き起こした。
 次いでリリースされ、またもや人々に衝撃を与えたのは、ラモーと同時代にパリで活躍したフランソア・クープランが、クラヴサン(チェンバロ)のために作曲した「クープラン作品集」。この両者の作品を来日公演でも披露、美しく繊細なタピストリーを織り込んでいくような、熟練した職人芸とも思えるピアニズムを聴かせた。
「ルイ王朝時代の楽器は現代のピアノとはまったく響きが異なるため、アプローチを変えなくてはなりませんが、弱音の出しかた、やわらかな音の表現など、学ぶべきことは多い。最初はもちろんどう表現したらいいかわからず、とまどうことも多かったのですが、徐々に作品の奥深さに魅了され、のめりこんでいきました」
 タローの奏法は、完璧なるテクニックが根底に存在し、その上に多彩な色彩と自由に彩られた音色が躍動感をもってちりばめられている。リズム、タッチ、フレーズの作り方が実に個性的で、装飾音がきらびやかに、ナイーブな感覚を伴って舞い踊っている感じである。
 まさに大人の音楽、ピアノを聴き込んだ人たちが、さらなる刺激と感動を求めて聴くピアノである。その成熟度が遺憾なく発揮されたのが、アンコールで演奏されたショパンのワルツだった。これもすでに録音されている。
「子どものころからずっとショパンを愛してきました。ところが数年前、クープランの楽譜と出合い、両者の音楽にさまざまな類似点があることに気づいたのです。ふたりともからだが弱く、生きる希望を作品に託した。大音響の音楽ではなく、気品あふれる繊細な響きで鍵盤をうたわせるような作品を書きました。これらの響きがドビュッシーらのちの世代の音楽家に大きな影響を与えています。私は昔からピアノを人間の声のようにうたわせたいと考えてきましたから、彼らの曲作りの基本精神に共鳴したんです」
 タローの話しかたも、演奏同様の静けさと繊細さと流れるようなある種のリズムを持っている。そして、気難しさも随所に顔をのぞかせる。
 完璧主義者ゆえの苦悩がそこには感じられる。次なる録音はショパンの「24の前奏曲」だそうだが、録音に関しては楽しさは味わったことがないという。
「録音というのはその瞬間の音楽を切り取ったもの。リリースされたらもうやり直しはきかない。もっとああすればよかった、と常に痛みが伴うものなのです。ひとつのレコーディングが終わってリラックスし、幸福な時間が訪れるかと思うと、けっしてそうではない。CDが店頭に並んだとき、それはもう私の手から離れ、すぐに次なるプロジェクトの準備にかからなくてはならないんです」
 そんな彼のほんの少しの幸福な瞬間は、プールで泳ぐとき。いずれの地でも週に3回は泳ぐ。
「無の状態になれるから。音楽以外にこれといった趣味もないので、プールが友だちです(笑)」
 もうひとつ、タローを特徴づけているのは自分のピアノをもたず、友人の楽器から楽器へと渡り歩いて練習していること。
「この方が集中できるんです。弾きたくてたまらなくなるから。愛しい人に会いたい気持ちと同じです」
 
 今回のインタビューでも、この練習するピアノを求めてあちこち渡り歩く話になった。そこには、思いもかけない場所が登場し、とても興味深かった。少し先の「音楽を語ろうよ」で、紹介します。
 今日の写真は、2007年から2008年にかけての雑誌の一部。彼は最初に会ったときからまったく体形が変わらない。聞くところによると、常に57キロをキープしているそうだ。

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posted by 伊熊よし子 at 22:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | インタビュー・アーカイヴ

ジョン・エリオット・ガーディナー

「また次は、こんな話をしたい。ぜひ近いうちに」
 こういわれて最初のインタビューを終えることがあるが、その後なかなかそのアーティストに話を聞く機会に恵まれず、続きのインタビューがかなわないことがある。
 イギリスの指揮者、ジョン・エリオット・ガーディナーもそのひとりだ。
 私は彼の細部までピリピリと神経が行き届いた演奏が好きで、聴きながらこちらも緊張感でいっぱいになるのがたまらない。
 癒されるとか、心がおだやかになるという演奏ではけっしてない。
 完璧主義者であり、神経質な面もあり、とても怖い存在だと思っていたのだが、インタビューでは真摯な答えを戻してくれ、そのインタビューはいまなお心に強く焼き付いている。
 インタビュー・アーカイヴ66回目は、そのマエストロ・ガーディナーの登場だ。

[FM fan 1992年11月9日?22日号 No.24]

いまではベルリオーズやフォーレも演奏しています

 アーリー・ミュージックの旗頭として知られるガーディナーが、手兵イギリス・バロック管弦楽団を母体とした19世紀用の時代楽器オーケストラ“レボリュショネール・エ・ロマンティック"を結成し、ベートーヴェンの全交響曲を演奏するために来日した。
 ガーディナーの集中力のすごさはディスクからも十分にうかがい知ることができるが、彼はコンサートのとき、楽章の合間に退席する人の小さな靴音が止むまでじっとその人を目で追っていたり、インタビュー中に飲み物を届けにきた人の声が止むまで話を中断したりと、かなり神経を張りつめた様子を見せていた。
 しかし、日本のアップルジュースが気に入り、リハーサルやコンサートの終了後にはミネラルウォーターなど見向きもせず、ひたすらアップルジュースのコップを探すというユーモラスな一面ものぞかせていた。

イタリアには小さいころから憧れていた


――ガーディナーさんがモンテヴェルディ合唱団を作られたのは21歳のときですが、この合唱団にモンテヴェルディの名を冠した特別な理由というのは、レパートリーを中心にすること以外に何かあるのでしょうか。
ガーディナー 私はイギリス生まれで、いうなれば北ヨーロッパの人間です。ヨーロッパでは北に住む人ほど南に惹かれるものなんです。特に私はイタリアには小さいころからずっと憧れていて、15歳で指揮を始めたときからイタリア音楽を指揮することに非常な喜びを感じてきました。
――それはゲーテがイタリアに心動かされる心情と同種類のものですか。
ガーディナー すごく近いでしょうね。芸術家の多くがイタリアに魅せられてきましたから。画家のデューラーもそうでしょう。シュッツもヴェネツィアに勉強に行きましたし…。
 私がモンテヴェルディに惹かれる一番の理由は、彼の音楽が非常にイタリア的であることのほかに、人間界のことに深い造詣があると感じるからです。モンテヴェルディの音楽はそれをことばとして伝えることができるものです。それをぜひ自分の合唱団で実践したかった。もちろん、オーケストラも含めてという意味ですが…。
 私がオリジナル楽器の指揮を始めたころは、まだそれらの楽器を十分に演奏できる人がいませんでした。でも、ここ10年くらいで演奏者のテクニックがぐんとアップし、時代もそういう方向に向いてきて、一種のブームが起きた形になったのです。
 いつの時代にも新しいことに挑戦するのは難しいもので、バッハの時代でもバッハは合唱団のレヴェルを上げることや、オーケストラに自分の作品を理解してもらうことにとても苦労したと思うんです。
 私の場合にも、同じことがいえます。合唱団とオーケストラの一体化と完璧性を常に追い求めていますから。
――「ミサ・ソレムニス」が大変な評判になりましたが、まさにその結晶ともいうべき録音だったわけですね。
ガーディナー あの作品は、私がもっとも愛してやまないものなのです。バッハの作品にとても精神性の高いものを感じますが、ベートーヴェンの作品にもバッハとはまた違った精神性の深さを感じ、精神の高揚を覚えます。
 ベートーヴェンは「ミサ・ソレムニス」という作品を通して、神の偉大な存在にくらべ、人間というのはなんと小さなものなのだろうということをいいたかったのだと思います。
 この点がバッハの作品と根本的に異なっているところです。

いつもスコアを抱えて走っている感じ


――最近はレパートリーがかなり広がってきましたよね。近代楽器のオーケストラの指揮もなさっていますし。
ガーディナー 最初はもちろん大好きなモンテヴェルディからスタートし、それからバロックと前古典派のオペラやオラトリオの復活上演などを試みました。
 それから徐々にハイドンやモーツァルトまでレパートリーを拡大していき、いまでは19世紀の作品もかなり演奏しています。
 最近はベルリオーズやフォーレも加わってきましたしね。やりたいことがたくさんありすぎて、時間がとてもたりません。いつもスコアを抱えて走っている感じです。

 多忙を極め、常に神経を緊張させているガーディナーの心のやすらぎは、家族とのだんらんから生まれる。イギリスの南西に父親と叔父さんが残してくれた大きな農場と森があり、そこで家族と過ごす時間が一番のリフレッシュ・タイムだそうだ。
 9、6、3歳の3人の子どもたちは、みな歌が好きで、次にガーディナーがヨーロッパで指揮をする「フィガロの結婚」に出演することが決まったとか。リハーサル前のごく短時間のインタビューだったため、ひとつの話題に集中してじっくり質問できなかったことを悔やんでいたら、マエストロは「次はぜひ、ヘンデル談義でもしましょう」ともうれしい提案をしてくれた。

 今日の写真は、その雑誌の一部。あれからだいぶ年月が経過してしまったが、次にガーディナーに会えるのはいつになるだろうか。ヘンデルは私がこよなく愛す作曲家。ヘンデル談義、待ち遠しいなあ。


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posted by 伊熊よし子 at 21:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | インタビュー・アーカイヴ

クリスチャン・ツィメルマン

 いまは、ワルシャワで第17回ショパン国際ピアノ・コンクールが開催されている真っ最中。今日は、第3次予選が行われている。
 現在、国際舞台で活躍しているピアニストの多くがこのコンクールの優勝者、入賞者だが、インタビュー・アーカイヴの第65回は、1975年の第9回の覇者、クリスチャン・ツィメルマンを取り上げたい。彼は当時18歳、史上最年少優勝者となった。

[SIGNATURE 2008年6月号]

孤高のピアニズム

 1975年にショパン国際ピアノ・コンクールで優勝の栄冠に輝いて以来、30年以上に及ぶ演奏活動において常に第一線で活躍を続けているトップクラスのピアニスト、クリスチャン・ツィメルマンは、自身の楽器を世界各地にもち運んで演奏するこだわりの音楽家。最良の演奏を聴衆に提供するために、楽器の構造から調律などの専門知識も習得し、ホールの音響などすべてに心を配る。そこから生まれ出る音楽は、完璧なる美に貫かれている。

 ツィメルマンのこだわりは、1999年に自身のオーケストラを結成したことにも見てとれる。長年、ショパンのピアノ協奏曲をさまざまなオーケストラと共演してきたが、常に完全な満足が得られず、ついに自分でオーケストラを作ることになった。
「ソロではなくコンチェルトとなると、指揮者やオーケストラとの音の対話が非常に重要。自分の目指す音楽を奏でたいと願うと、どうしても私の音楽を完全に理解してくれるオーケストラとの弾き振り(ピアノ演奏をしながら指揮も担当)が理想的です」
 ショパンは2曲のピアノ協奏曲を残した。それをツィメルマンは理想的な美しさをもって表現したいと考えている。そのためにポーランドの若手演奏家を集めてオーディションを行い、ポーランド祝祭管弦楽団を結成し、各地で演奏して回った。
「自分の音楽を完全に納得のいく形で演奏し、聴いてもらいたいのです。少しでも不満の残ることがあったら、それはステージに乗せるべきではありません。音楽は神聖なもの。演奏家は完璧な準備をして本番に臨むべきです。そうでないと人々の心を真に打つ音楽は生まれない。私は演奏家が前面に出るのではなく、作品のすばらしさ、作曲家の意図したことをピアノで伝えたい。それが私の使命ですから」
 ツィメルマンは1956年ポーランドのシュレジア地方に生まれた。両親は工場で働いていたが、ともに音楽を愛していた。父はいつも仕事が終わると工場の仲間たちを連れて帰宅し、みんなでピアノやさまざまな楽器を演奏していた。
 5歳の誕生日にピアニカのような楽器を与えられたツィメルマンは次第にその仲間に加わり、楽譜を読むことを学び、徐々にアンサンブルの能力を磨いていった。
「毎日音楽漬けでした。シュレジア地方は環境汚染のひどい土地で、窓も開けられないほどでしたが、家にはいつも音楽があった。父の仲間は食事をするのも忘れていろんな楽器を演奏しては楽しんでいた。彼らは音楽家になりたくても、機会もなくお金もなく、なれなかったんです。でも、音楽に対する渇望が渦巻いていた。やがて私はピアノを習うようになり、音楽家になることができましたが、いまでも常に音楽に対する渇望は人一倍強い。この気持ちを生涯忘れてはならないと思っています」
 小学校に入ったとき、ツィメルマンにはひとりの友人ができた。あるとき、その子がツィメルマンを自宅に呼んでくれた。立派な家で、部屋にはすばらしい家具が並んでいた。でも、何かが足りない。
「ねえ、ピアノはどこにあるの?」
 その家にはピアノはなく、楽器もまったくなかった。音楽を演奏する人はひとりもいなかった。
「大きなショックを受けました。当時の私は、音楽を演奏しない人がいるということが信じられなかったのです。音楽がなくても、生きていくことができる。その事実を知り、驚愕しました。それまで信じていた世界が一瞬にして崩れていくのを感じました。私は食べたり寝たりするのと同じくらい演奏するのは自然なことでした。人間には自分と違う生きかたがある、とそのとき知ったのです。そのショックからいまだに回復していない(笑)。これが私のマイルストーンだったのでしょうね」
 ツィメルマンの最高のものを求める姿勢には多くの作曲家も賛同し、作品を献呈、初演の依頼も多い。祖国の偉大な作曲家ヴィトルド・ルトスワフスキ(1913?1994)とも交流が深く、彼のピアノ協奏曲を1988年のザルツブルク音楽祭で初演。指揮はルトスワフスキが担当し、翌年には録音も行われた。
「作曲家の指揮で新作を初演するのは大変名誉なことですが、だれも聴いたことのない作品を演奏することにはどれほど多くの困難が伴うかということも思い知らされました。ルトスワフスキには多くの質問をしたのですが、演奏するのはきみだよ、とはぐらかされた。私の自由を重んじてくれたのです。でも、テンポなどは絶対に守ってくれと頑ななまでにいわれました。ルトスワフスキの作曲技法は確固たるフォルムに貫かれ、ひとつの完成した世界がある。それを守りながらどこまで自由な解釈をプラスしていいのか、本当に悩みました。彼は指揮をしながら大いなる寛容の精神で私の演奏に耳を傾けてくれた。そして成功に導いてくれたのです」
 ツィメルマンに捧げられたピアノ協奏曲が初演20周年を迎えた今秋、日本で演奏される。磨き抜かれた究極のピアニズムが披露されるに違いない。
 
 ツィメルマンには初来日のころから取材を続けているが、かなり気難しい面と、ジョークを連発する面とが共存し、インタビューでは結構とまどうことも多い。だが、彼は日本をこよなく愛し、とりわけ東京の六本木を好む。ひとりで真夜中にフラフラ歩いていても、だれも気に留めないところが気に入っているとか。日本の秩序を重んじるところ、礼儀正しさ、治安のよさ、知的欲求が強いところも魅力を感じるそうだ。
 今日の写真は、その雑誌の一部。本当に整っている顔をしているよね。近くで見ると、まさに彫刻のようだワ、と思って見とれてしまう。
 以前、インタビューのときに「バーゼルに住んでいるんですよね。テニスのロジャー・フェデラーの家の近くですか」と聞いたら、「ええっ、きみ、フェデラーのファンなの? そうだよ、フェデラーの家はよく知っているよ。本当にファンなの?」と何度も聞かれ、それ以上はいえなかった(笑)。

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posted by 伊熊よし子 at 21:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | インタビュー・アーカイヴ
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