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シューラ・チェルカスキー

 これまで多くのアーティストにインタビューを行ってきたが、時折ものすごくユニークで、型破りな人に出会う。
 インタビュー中、「これはいったい記事になるのだろうか」と心配するほど、奇人変人ぶりを発揮する人もいる。
 なかでも、シューラ・チェルカスキ―は忘れがたい印象を残している。チェルカスキ―(1909?1995)はウクライナ出身のユダヤ系アメリカ人ピアニスト。私が会ったのは最晩年だが、いまでもそのインタビューのときの様子は鮮やかに脳裏に蘇ってくる。
 インタビュー・アーカイヴ第72回は、そのチェルカスキ―の登場だ。

[ショパン 1993年4月号]

自由にマイペースで生きることができる人ってうらやましい!

 今年84歳を迎えるチェルカスキ―が、例年通り真冬の日本にやってきた。今回もレパートリーの広いチェルカスキ―らしく、バッハからペリオまで幅広い作品を聴かせてくれた。
 各会場ではアンコールを求める拍手が鳴り止まず、チェルカスキ―は5曲も続けて演奏。それでもまだまだ演奏可能なそぶりを見せるかくしゃくぶり。このエネルギーはいったいどこからくるのかと不思議に思っていたら、なぞはインタビュー中に解けた。彼はひたすらマイペースの姿勢を崩さなかったのである。
 それも“超”のつくマイペース。これはいくらことばで表現しても真の姿は伝わるものではない。
 そこで今回は、いつもと少々趣向を変えて、チェルカスキ―の素顔を忠実に伝えるべく、インタビュー中の様子をそのまま再現してみた。

――先日はすばらしい演奏を聴かせてくださって、ありがとうございました。チェルカスキ―さんは、演奏の前は何か縁起をかつぐというか、おまじないというか、特別にしていることがおありとか…。
チェルカスキ―(以下C) いや、縁起をかつぐというよりもすべて一分の狂いもなく物が並んでいないと気がすまないんだよ。ピアノ、せっけん、プログラムなどすべてがね。それと練習するときにきっちりと時間を計る時計がないと絶対ダメ。これを日本人はきちんと守ってくれるから、100パーセント信頼できる。日本人は私と似ている面が多いので気が合う。ここのホテルでも、日本人がいかに先を見越して行動するかを見ることができて楽しい。朝食のときだって、おつりをすぐに渡してくれるし、こういう点がヨーロッパじゃ遅いからねえ。
 日本人は常に先のことを考えるでしょ。私は、20年前に食事したけど覚えているかとか、妹を覚えているかとか、そういう過去の話はまったく興味がない。過去は振り返らず、いつも先のことを考えていたい。ただ例外は過去に犯した過ちを2度と繰り返したくない、それだけだよ。
 ここまで話がくるのに、実は大変なまわり道をした。私がセットしてあるテープレコーダーを見ては、「あっ、私もこれと同じのをもっているよ」と、突然席を立ってテレコをもちにいってしまったり(そのテレコは私の物とは似ても似つかぬ物だったが)、初めて来日したときの演奏会の様子を聞いたら、案の定、過去の話は興味がないらしく「あのときは帝国ホテルに泊まってね、そのときの朝食が…」と、すぐに音楽から話が逸れてしまう。
――雑誌「ショパン」は、今年創刊10周年を迎えます。それからチェルカスキ―さんの新譜もショパンのピアノ・ソナタ第2番、第3番ということで、ショパンのピアノ・ソナタについてお話を伺いたいのですが…。
C ショパンっていうと、おもしろい話があってね、ひとつはジョークなんだが…。
――(あっ、また見事にかわされた)
C アメリカの田舎の家族が大金を手にしたけど、使い道がわからなくて、毎週水曜日に人を招いて豪華なディナーを開いたんだよね。しばらくしたら、主人の耳にみんなが彼の奥さんをバカにしているという噂が伝わり、彼は妻に余計なことはいわないようにと釘を刺した。
 ところが、その夜のディナーで、「ショパンはお好きですか」と聞かれた奥さんは、「ああ、彼なら2週間前、8番のバスのなかで見かけたわ」と答えてしまう。それを聞いた主人は、テーブルの下で妻の膝を蹴った。そして怒りの目を向けた奥さんに、「バカ、8番のバスはもう走っていないのを知らないのか」といったんだ。
――ああ、またまた話がどんどん逸れていってしまう。この後、チェルカスキ―は今度は本当にあった話、といって真面目な顔をし、彼がマヨルカ島にいったときの話を始めた。 
 それはショパンの直系の家族にあたる人がチェルカスキ―の演奏を聴き、彼のことを有名なピアニストとは知らず、「そう、ショパンはこう弾くべきなのよ」といってくれたので、とてもうれしかったということだった。
 でも、この間も「ちょっと暖房暑くない? 私はこれくらいじゃないとダメなんだけどね。毎朝泳いでいるんで」といいながら、立ったりすわったり。
 さらに、生まれ故郷のオデッサの音楽事情を聞こうとしたら、話はモスクワに飛び、チャイコフスキー国際コンクールまで一気にいってしまった。
――国際コンクールの審査員はなさっていませんが、チャイコフスキー国際コンクールでしたら、引き受けるつもりはありますか?
C あっ、この前優勝したのはだれだっけ? ボリス・ベレゾフスキー? ああ、知っているよ、その人。確か、ロンドンのアルバートホールで演奏したと思う。
――(ハズシ方がプロですよね)
C うん、実にうまかったなあ。だけど、音響がよくなかったのか、ときどきオーケストラの音にもぐっちゃって聴こえなかった。
――チェルカスキ―さんは、演奏する際に、そのときどきのインスピレーションを非常に大切にされるということですが、そのインスピレーションとは作品や演奏する場所、または指揮者との共演などに左右されるものでしょうか。
C 特にインスピレーションはないけど、心を動かされる場所というのはある。私はね、大きな都市か、反対に海辺とか田舎とか、そういう静かなところが好きなんだよ。中間はないね。そうそう、札幌はまだいったことがないなあ。とても大きな都市だと聞いているから、ぜひいってみたいんだが。

 そんなこんなで1時間のインタビューは過ぎ去ってしまった。いったい何を聞いたのか自分でもよくわからないし、中身がまったくなくて読者の方々にはとても申し訳ないと思う。しかし、ひとつだけわかったことは、チェルカスキ―という人は、自分に興味がある話には耳を傾けるが、少しでも興味がない話題は自然に耳を通り過ぎていってしまうことだ。
 だが、それがけっして嫌味であるとか、故意でないことははっきりしている。すべてをユーモアに変えてしまい、周囲を温かい雰囲気に包み込んでしまう。これはもう天賦の才能としかいいようがない。
 とにかくピアノを弾いているときが最高で、他のことはまったくかまわない。住んでいるのもホテルで、楽器と楽譜とごく身のまわりの物だけに囲まれ、ぜいたくは好まないらしい。そしてステージにすべてを賭ける。
 そんなチェルカスキ―は、最後に「オデッサでチャリティ・コンサートをするのが夢だ」といった。これはぜひ実現してほしい。その話題だったら、話を逸らさず、きっとまともに答えてくれるだろうな。
 ああ、自由にマイペースで生きることができる人ってうらやましい!

 今日の写真は、その雑誌の一部。写真撮影のとき、ピアノの前でポーズをとってほしいと頼んだら、ネクタイをしていないことに気づき、わざわざ時間をかけてステージ衣裳に着替えてくれた。う?ん、こんなことをしてくれる人も初めてだ。



 
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posted by 伊熊よし子 at 21:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | インタビュー・アーカイヴ

ファジル・サイ

 ファジル・サイは鬼才、奇才、真の天才と称される。彼はモーツァルトの録音で衝撃のデビューを果たし、以来ピアニストとして、作曲家として国際舞台で活躍。
 昨日は紀尾井ホールでオール・モーツァルト・プロによるリサイタルがあり、天上に駆け上っていくような嬉々としたモーツァルトを聴かせ、至福のときを味わわせてくれた。
 今日は、久しぶりにファジルに会い、インタビューを行った。以前は、相手の顔をまともに見られず、目が宙をさまよっているような表情をしていたが、今日のファジルは、まっすぐに私の眼を見て、再会を喜んでくれ、雄弁に語った。このインタビューは、来春の「CDジャーナル」に書く予定である。
 今回は、「インタビュー・アーカイヴ」第71回として、ファジル・サイを取り上げたい。もう16年前のインタビューである。

[FM fan 2000年11月27日?12月10日 No.25]

久々に元気なピアニストが登場!
「演奏がエキサイティングだって? ぼく自身は繊細な表現も十分にしているつもりなんだよ」 


生命力あふれるワクワクドキドキする演奏

 J.S.バッハ、ストラヴィンスキー、ガーシュウィンの録音でとてつもなく個性的で、聴き手の心を高揚させるエキサイティングなピアノを聴かせてくれたファジル・サイが、ついに10月に来日を果たし、すみだトリフォニーホールでコンサートを行った。
 プログラムは前半が「プレリュードとフーガ イ短調」「イタリア協奏曲」「シャコンヌ」というオール・バッハ。そして後半は、金聖響指揮新日本フィルとの共演によるガーシュウィンの「アイ・ガット・リズム変奏曲」「ラプソディ・イン・ブルー」という、彼がいまもっとも得意とするプログラム。そのいずれもが生命力あふれるワクワクドキドキする演奏で、何日経過してもその高揚感が失われることはなかった。
 サイはステージに登場したときから目は宙をさまよい、おじぎもそこそこにピアノの前にすわった。そして演奏が開始するやまわりはいっさい目に入らないような超没頭スタイルを披露、聴き手にも極度の集中力を要求するようなピアノを聴かせた。
 ただし、ステージを離れるとすこぶるシャイ。エキサイティングな演奏がうそのように背中を丸めてボソボソと低い声で話す。
「演奏がエキサイティングだって? 確かに世界のさまざまな都市でそういうふうに評価してくれるけど、ぼく自身は繊細な表現も十分にしているつもりなんだよ(笑)。特にモーツァルトの録音ではこのデリケートな表現というものが大切だからね。ぼくが録音した「キラキラ星変奏曲」や「トルコ行進曲」は子どもたちがとても親しみやすいと感じている曲だから、勢いと繊細さなどさまざまな表現を盛り込んで演奏した。子どもは敏感だからね。いい演奏をしないと聴いてくれないし、もちろんモーツァルトは大人にも広く愛されている作曲家。ぼくは自分が子どもだったころにこれらの作品に魅せられた。そのときの気持ちをいつまでも失わないようにしているんだ」
 
ピアノが自分の生涯の友であると確信

 5歳からピアノを始めた。両親は音楽家ではないが、とてもインテリジェンスな家庭環境だったとか。ちなみに父親は小説家である。
「ごく幼いころ、ぼくは耳から覚えた旋律をすぐにリコーダーやピアニカのような楽器で演奏してしまったらしい。それを見て、両親は何か楽器をやらせようと思い立った。トルコではクラシックか民族音楽を学ぶというのがふつうで、ぼくはクラシックを選んだというわけさ。家には本がたくさんあって、ピアノの練習以外はいつも本を読んでいるような子どもだった。それもモーツァルトやベートーヴェンの伝記や偉大な作曲家にまつわる本ばかり。子どもだったぼくは、その作曲家の子ども時代の生き方にとても共鳴した。いつか自分もそんなふうに曲が書きたい、そんなあこがれを抱いていたんだ」
 やがてアンカラ国立音楽院に進んだサイはピアノと作曲を学び、17歳のときに奨学金を得てデュッセルドルフのシューマン音楽院に留学する。
「15歳のころにはもうステージで演奏したんだけど、このころからピアノが自分の生涯の友であると確信していた。ピアノを弾くこと以外、ほかのことは考えられなかった。でも、ドイツではその考えが根底からくつがえされてしまった。19歳のころは孤独感にさいなまれ、楽器を弾くことも音楽を聴くこともまったくできない状態まで落ち込んだ。もう自分でもどうしたらいいかわからない精神状態だったよ」
 このころ就いていた先生はデイヴッド・レヴァイン。その彼はエイズにかかり、やがて亡くなってしまう。
「ショックだったよ。でも、先生と一緒に演奏したストラヴィンスキーの《春の祭典》(ピアノ版)は、一生忘れられない。すばらしい共演だったから。これはぼくを救ってくれた作品でもあるしね」
 実は、ピアノも弾けず音楽もいっさい聴かない日々を送っていたサイは、ある日思い切ってラジオのスイッチを入れる。そのとき流れてきたのが、アンタル・ドラティ指揮デトロイト交響楽団の演奏による《春の祭典》(オーケストラ版)。その演奏に心を動かされたサイは最後まで聴き、すぐに楽譜店にピアノ版のスコアを探しにいく。
「ストラヴィンスキーが実際に書いた4手のスコアを見つけ、それをとことん勉強した。この曲に出合って、ぼくは再び生きる喜びに目覚めたんだ。すぐに先生のところにいって、退院したら一緒に弾こうと話し合った。たった一度しかふたりで演奏できなかったけど、それは貴重な経験としてぼくの心に残った。それから10年間、これをひとりで演奏できないかと考え、企画を温めていたわけなんだ」
 レヴァインの死後、サイはベルリン・アカデミーに移り、ここでピアノを教える仕事に就く。そして25歳のとき、ニューヨークのヤング・コンサート・アーティスト国際オーディションで第1位を獲得。これが録音デビューにつながった。
 日本では12月にリリースされる予定のモーツァルト・アルバムが、ヨーロッパでブレイク、特にフランスでは破格の売り上げを記録している。
「フランスでモーツァルトが評価され、とてもいいスタートが切れた。演奏会も入ってきて、いま年間100回のコンサートをこなしている。とてもキツイけど、この生活を楽しんでいるよ。だってあの落ち込んでいたときから見たら、天国だもの。どんなにハードでもやり遂げなくちゃ。1回1回のコンサートに集中力をもって臨むのは大変だけど、いまは突っ走るよ。でも、一番問題なのは作曲する時間が限られること。もう少ししたら、時間を調整して作曲の時間を確保するようにするつもり。自作だけでコンサートもしたいしね」

音の向こうに見えるものから実際の音を

 ストラヴィンスキーは10年間温めてから自分だけの演奏で多重録音をし、その後バッハやガーシュウィンもじっくり練った選曲で録音にこぎつけた。さらに今年はモントルーやパリ、イスタンブールなどのジャズ・フェスティヴァルにも参加、自作やトルコの音楽を自身のバンドで演奏した。
 彼はこのように自国の音楽を世界に広めたいという強い意志ももっている。
「トルコの民族音楽や宗教音楽は、とても美しい旋律とリズムをもっているんだよ。行進曲のような軍隊を思わせる曲が広く知られているけど、実際は祈りの音楽や自然を賛美したもの、民族のルーツを伝えるものなどが多い。特にぼくが気に入っているのはイスラムの音楽で、スーフィというもの。これは多分CDのワールドミュージックのコーナーにいくと売っていると思う。中東やバルカン半島の音楽に近い感じかな。そうしたものをほくは自作に取り入れて、世界の舞台で演奏していきたい。バルトークやロシアの作曲家が自分たちの民謡や舞曲を大切にしたようにね。ぼくは作曲するときはその音符の先に見えるもの、音の向こうに見えるものを想像して実際の音を生み出していく。日本の音楽にもどこか共通しているところがあると思うけど、音で人生を語り、生き方を問い、自分自身を率直に表現したいんだ」
 現在はニューヨークに居を移し、多忙な日々を送るサイだが、そのなかでも時間を見つけて大好きな映画を見るようにしている。ジャンルは問わず、さまざまな映画を見るそうだが、特に印象に残っているのは「シンドラーのリスト」と「パルプフィクション」。
「将来は映画音楽を書いてみたい。これは大きな夢といえるかもしれない。映画はいいよね、さまざまな創造力を与えてくれる。昔からドストエフスキー、トルストイ、そしてドイツの作品など本をたくさん読んでいるけど、いつもそれらに視覚的なイメージを重ね合わせている。そして音楽もそこから湧いてくる。いまはトルコの詩をよく読むんだ。詩というのは、そのことばが完全に理解できるものでないと深いところまで理解できないよね。だから詩はやはり母国語のものに限る。トルコの詩はすばらしいんだ。手放しでほめたたえちゃうよ(笑)」
 いまピアノ協奏曲を作曲中だという。来年はパリでトルコの若手作曲家の作品の世界初演も行う予定。久々登場した元気なピアニストは、さまざまな活動で私たちを驚かせてくれる。

 このインタビューから16年、この間ファジル・サイは世界中のホールや音楽祭や記念行事の場から作曲依頼が入る作曲家に成長。ピアニストとしては、モーツァルトのピアノ・ソナタ全集をリリースした(エイベックス)。恥ずかしそうな笑顔は変わらないが、話すときの視線はすっかり変わった。
 昨夜のモーツァルトの演奏も見事だったが、ファジルの成熟した姿に触れることができ、感慨もひとしおだった。
 今日の写真は、そのときの雑誌の一部と、今日のインタビュー後の1枚。にこやかに話していたのに、写真を撮るといったら急に堅い表情になってしまった。やっぱりシャイな素顔は変わらない(?)





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posted by 伊熊よし子 at 23:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | インタビュー・アーカイヴ

ソル・ガベッタ

 アルゼンチンから国際舞台へと彗星のごとく躍り出たチェリストのソル・ガベッタは、陽気でオープンな性格。演奏も前向きでパワフル、聴き手の心を瞬時にとらえるインパクトの強さを備えている。素顔も明るく、太陽のようだ。
「インタビュー・アーカイヴ」の第70回は、そんなソルの登場。

[弦楽ファン 2007年 Vol.10]

私は人間味あふれる音楽が好き 

 ソル・ガベッタの名前が日本で知られるようになったのは、ある1枚のCDがリリースされてからのことだった。2005年にアリ・ラシアイネン指揮ミュンヘン放送交響楽団と共演して録音した「ロココ風の主題による変奏曲?ソル・ガベッタ・デビュー」(BMGジャパン)は、みずみずしい音楽性に彩られたポジティブな演奏で、チェロと一体となった若き奏者の音楽は、多くの人々を魅了した。以後、彼女はひんぱんに来日を重ねていく。
「でも、正直いうと、このデビュー・アルバムの録音は、私自身ものすごく入れ込んで集中し、あまりにも感情過多になりすぎたため、終わってから約1年ほどはCDを聴くことができなかったくらいです。どんな結果か、怖かったんです。ようやく1年を過ぎたころに聴いてみて、自分としては納得のいく演奏になっていたので、ホッと胸をなでおろした感じ。録音のきびしさを知らされました」
 つい先ごろ、セカンドアルバムでヴィヴァルディの協奏曲を取り上げたが、今回は自分の演奏を冷静に受け止めることができた。
「バロックの弓を使用しています。奏法も表現法も、作品の時代に合う様式をずいぶん研究しました。今度は、第1テイクのプレイバックをすぐに聴きなおして、いろいろ考えることができました。少しは成長したかしら(笑)。私の場合は、デビューCDが出てからすぐに各地から招待をいただき、海外でも演奏ができるようになりましたが、以前は友人たちからCDを出しても何も変わらないよ、といわれていました。ですから、とてもラッキーだったと思います」
 いまはスケジュールが満杯、世界各地を飛び回る生活だ。本拠地はスイスのバーゼル郊外の緑に囲まれたオルスベルク。ここでは2006年6月から音楽祭を開催している。
「たまたま家を探していて、静かでゆっくりできる環境のところが見つかったんです。ここは隣がチャペルで、演奏する場所もいくつかあったため、気の合う友人たちと小さな音楽祭を始めたの。名前は私の名と村の名を合わせたソルスベルク。私の名前は太陽という意味で、ベルクはドイツ語で山。陽のあたる山という名の音楽祭になりました。最初は週末だけの小さな規模だったのに、今年は一気に大きくなって、12公演も行ったんですよ。好きな人たちと好きな作品を好きな場所で演奏する、これが基本ポリシーです」
 ソルという名前は、母親が命名した。実は、ガベッタ家には自閉症の長女がいて、2番目はヴァイオリニストの兄、その下に双子が生まれたが、生後まもなく亡くなってしまった。母親は深い悲しみに襲われたが、ぜひもうひとり子どもがほしいと願い、今度の子は家に太陽をもたらしてくれると信じた。
「私は家族の願い通り、明るい性格になりました。でも、これは母から受け継いだもの。母はどんな苦境にあっても、絶対にへこたれない強い人で、いつも物事を前向きに考える。私もそうありたいといつも思っています」
 ソルは3歳半でヴァイオリンとピアノを始めた。5歳上の兄がスズキメソードに通っていたため、それについていったのがきっかけだ。その後、4歳半でチェロに転向。以後、この楽器ひと筋となる。
「幼かった私は、兄がヴァイオリンを弾く姿を見てうらやましくてたまらなかったのです。でも、どんな分数楽器でも楽器は大きすぎる。だから聴覚を鍛えるレッスンを主体に行っていたの。1年後に、当時アルゼンチンに初めてハーフサイズのチェロが入ってきて、それにひと目惚れ。実際はものすごく大きくて、私にとってはコントラバスのような存在だったけど、ヴァイオリンやピアノを習っていたので、上達は早かったみたい」
 その後、10歳からイヴァン・モニゲッティのもとに10年間通い、基礎をじっくりと学ぶことになる。
「最初に師事したときは10歳でしたので、本当に基礎的なことから勉強しました。モニゲッティ先生は私のコンサートにも同行し、その地の美術館や博物館に連れていってくれ、文化的な面の勉強も大切だと教えてくれました。私の成長を形成する上で、非常に多くのものを与えてくれた恩人です。そして20歳になったとき、自分の恩師であるダーヴィド・ゲリンガス先生のところにいきなさいと薦めてくれたのです。ゲリンガス先生はとてもきびしいレッスンをすることで知られていますが、私には自分自身のパーソナリティを生かす演奏、音質の大切さを教えてくれます。先生は本当にすばらしい美音の持ち主で、私もいつの日かそんな音色が出せたらと願って、日々練習に励んでいます」

演奏は、大切な生きがい

 ソル・ガベッタは、これまで多くの偉大な指揮者と共演を重ねているが、そうした指揮者の多くが彼女の人間性と音楽性にほれ込み、支援を申し出ている。まず最初に出会ったのは、2004年9月にルツェルン音楽祭でショスタコーヴィチの協奏曲で共演したワレリー・ゲルギエフである。
「マエストロ・ゲルギエフはとてもエネルギッシュ。そのパワーに負けないよう頑張りました。ショスタコーヴィチはロシア音楽の大切な位置を占める作品ですから、リハーサルのときから、いろんなアイディアを与えてもらいました。その後、大きな影響を受けたのはネーメ・ヤルヴィ。彼は経験も知識もとても豊富。ともに演奏するだけで勉強することは山ほどあります。そしてレナード・スラトキンも、初めて共演したときに、きみは北米で演奏したことがあるか、なかったら私が手を貸そうといってくれ、その後、マエストロ・スラトキンは私の北米での演奏の扉を開いてくれたのです」
 明るく人なつこく前向きな彼女は、だれにでも好かれるようだ。
「そんなことはないですよ。私のことを結構うるさいと感じる人もいるみたい。遠慮せずにどんどんしゃべるからかも。でも、いまはせっかくいただいたチャンスを目いっぱい生かすよう、何にでも積極的にチャレンジしていきたい。もちろん、人とうまくやりながらね。私はすごくストレスがたまる方で、ヘルペスになることが多い。これは最近、日本の鍼灸治療が効くとわかったの。これでも、結構周囲に気を遣っているのよ(笑)」
 彼女は日本にくるのが長年の夢だった。いつもマネージャーにどんな仕事でもいいから日本で演奏させて、と頼んでいたとか。
「日本の文化、歴史、人々の仕事に対する熱意、礼儀正しく人を尊重する態度など、全部大好き。夢はかなったけど、この夢はいま始まったばかり。今後はもっと日本を知りたい」
 趣味は新体操。子どものころから飛んだり跳ねたりが好きだったが、腕や指を痛めるからと、中止することになってしまった。
「私たちはからだが資本。いい演奏をするためには、健康が一番。空港とホテルとホールの往復で心身が休まるときがないけど、できる限り自分の時間をもち、精神と肉体を健全な状態に保ちたい。私は人間味あふれる音楽が好きなの。テクニックに頼った、無機的で機械的な演奏はしたくない。そのためには自分を磨かないと。演奏はけっして仕事ではなく、大切な生きがい。生きる意義を問われるもの。生き方すべてが演奏に表れてしまいます。ですから、もっと内面の強さをもつ人間になりたいし、きびしい局面に出合ってもへこたれない人間になりたいの。そうすれば、音楽的な面や奏法で悩みにぶつかったときも、きっと乗り越えられると思うから」

 ソル・ガベッタは、とてもひたむきで向上心に富んだ人だった。このインタビューからかなり年月が経ったが、またインタビューする機会に恵まれたら、もっと彼女の内面に触れたいと思う。明るさと繊細さ、行動的な面と思慮深さ、さまざまなコントラストを併せ持つ人である。
 今日の写真は、その雑誌の一部。


 

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posted by 伊熊よし子 at 21:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | インタビュー・アーカイヴ
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