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チョン・キョンファ

 1月28日、チョン・キョンファがサントリーホールで行った「J.S.バッハ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&無伴奏ヴァイオリン・パルティータ全6曲」のリサイタルは、心の奥に響く圧倒的な存在感を放っていた。
 彼女の真摯に作品と対峙する思いが痛いほど伝わり、磨き抜かれたテクニックに支えられた、一徹な気概が横溢したリサイタルとなった。
 第1番と第2番の間に15分、第2番と第3番の間に20分を休憩をはさみ、約3時間というもの、怖いまでの集中力を維持し、ほとんどからだを動かさない奏法でバッハの内奥へとひたすら迫り、ホールの隅々まで緊迫感のある音色を響かせていった。その演奏は、何日たっても色褪せることない。
 チョン・キョンファはこのバッハを演奏するにあたり、2016年7月6日、インタビューに答えてバッハ観をことばを尽くして話している。インタビュー・アーカイヴ第73回はそのチョン・キョンファの登場だ。

[intoxicate 2016 October]

苦難のときを超え、満を持して全曲録音に挑んだチョン・キョンファのバッハ 

 幼いころから音楽に類まれなる才能を示し、「神童」と称され、特別な教育を受けて実力を伸ばしてきた韓国出身のヴァイオリニスト、チョン・キョンファ。12歳で渡米し、ジュリアード音楽院で名ヴァイオリニストたちに師事し、19歳でエドガー・レヴェントリット国際コンクールに優勝して国際舞台へと躍り出た。以来、怖いまでの集中力に富む、深い表現力に根差した完璧なる演奏は各地で高い評価を得、全身全霊を賭けて演奏する情熱的な姿勢に世界中のファンが魅了された。
 だが、2005年に指のケガに見舞われ、5年間まったくヴァイオリンが弾けない状況に陥る。この間は後進の指導にあたるなど若い音楽家の育成に尽力した。復帰は2011年12月。演奏は洞察力に富み、情感あふれる響きとなり、ヒューマンな音楽へと変貌を遂げた。いまや各地から演奏のオファーが相次いでいる。 
 2013年6月には15年ぶりの来日公演が実現、聴衆に深い感動をもたらした。さらに2015年にも来日し、4年間デュオを組んでいるケヴィン・ケナーとのデュオでベートーヴェンのソナタをじっくりと聴かせた。
 チョン・キョンファといえば、野生動物を思わせるような本能的な演奏をする人、俊敏で情熱的で一気に天に駆け上がっていくようなはげしい演奏をする人、というイメージが定着していた。しかし、インタビューではひとつひとつの質問にことばを選びながら真摯な答えを戻し、静かにゆったりと話す。ただし、時折熱を帯びてくると声高になり、早口になり、口調も音楽と同様テンションが上がっていく。
 そんな彼女が長年の夢であるJ.Sバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとバルティータ」全6曲をリリース(ワーナー)した。
「この作品は私の人生の糧ともいうべき作品。ニューヨーク時代に14歳くらいで弾き始めたけど、本当に理解することが難しかった。特にフーガは大いなるチャレンジだったわね。全体の流れを大切に、ヴィブラートを抑制しながら弾いていく。自分のなかで各々の作品を完全に咀嚼し、音にしていく過程はとても困難だった。でも、長年に渡り、ずっと弾き続け、勉強を続けてきたわけ。今回は勇気を出して、いま演奏するべきだと自分にいい聞かせ、全曲録音に挑戦したというわけ」 
 とりわけ愛しているのが、ソナタ第3番のフーガである。フーガに関しては、当初からさまざまな悩みを抱え、あらゆる奏法をガラミアン教授から学び、自身で内容と解釈と奏法をひたすらきわめていった。ここに聴くフーガは、長年の研鑽と研究の賜物である。
「このバッハは、聴いてくれる人たちへの私からの“ギフト”なの。私が楽器を弾けない時期にバッハに救われ、音楽から贈り物を与えられたことを考え、今度は私が演奏で多くの人に贈り物を届けたいと思ったの」
 彼女は、ヴァイオリンが弾けなかった時期に、頭のなかでバッハの楽譜と対峙したという。楽器に触らず、楽譜の隅々まで読み込み、イメージを広げていく。その作業が、いまは大きな成果と役割を果たしていると語る。
「演奏家は、どうしても楽譜を深く読むことより、先に楽器を手にして弾き始めてしまう。でも、譜面をじっくり読み、頭のなかで音楽を鳴らすこと、想像すること、考えることはとても大切なことなの。楽器が弾けない時期に、私はこの精神を学んだのよ」
 ここに聴く全6曲は、楽譜の読み方を変え、作品のイメージをふくらませ、バッハにひたすら近づいた演奏。ひとつのソナタ、ひとつのパルティータがチョン・キョンファの声となり、語りとなり、歌となって聴き手の心にゆっくりと浸透してくる。
「こうした偉大な作品は、人生とは何か、なぜ私はここにいるのか、どこからきてどこへいくのか、どう生きるべきかという人生の命題を突き付けてくる。それを私は音楽で表現し、聴衆とその精神を分かち合いたいのです」
 まさに彼女の心からの“ギフト”である。

 今回の演奏中、キョンファは風邪のためか咳き込んで止まらなくなってしまった。しばらくステージで咳をしていたが、舞台袖に戻ることも、水を飲むこともせず、やがてその曲を最初から弾き始めた。
 以後、集中力はより高まり、最後まで咳はまったく出ることなく、一気に弾ききった。すさまじいまでの精神力の強さである。
 終演後、楽屋で少しだけ話をし、写真を撮ったが、疲労困憊している表情だったため写真をアップするのはやめにした。
 今日の写真は、インタビューが掲載された雑誌の一部。


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シューラ・チェルカスキー

 これまで多くのアーティストにインタビューを行ってきたが、時折ものすごくユニークで、型破りな人に出会う。
 インタビュー中、「これはいったい記事になるのだろうか」と心配するほど、奇人変人ぶりを発揮する人もいる。
 なかでも、シューラ・チェルカスキ―は忘れがたい印象を残している。チェルカスキ―(1909?1995)はウクライナ出身のユダヤ系アメリカ人ピアニスト。私が会ったのは最晩年だが、いまでもそのインタビューのときの様子は鮮やかに脳裏に蘇ってくる。
 インタビュー・アーカイヴ第72回は、そのチェルカスキ―の登場だ。

[ショパン 1993年4月号]

自由にマイペースで生きることができる人ってうらやましい!

 今年84歳を迎えるチェルカスキ―が、例年通り真冬の日本にやってきた。今回もレパートリーの広いチェルカスキ―らしく、バッハからペリオまで幅広い作品を聴かせてくれた。
 各会場ではアンコールを求める拍手が鳴り止まず、チェルカスキ―は5曲も続けて演奏。それでもまだまだ演奏可能なそぶりを見せるかくしゃくぶり。このエネルギーはいったいどこからくるのかと不思議に思っていたら、なぞはインタビュー中に解けた。彼はひたすらマイペースの姿勢を崩さなかったのである。
 それも“超”のつくマイペース。これはいくらことばで表現しても真の姿は伝わるものではない。
 そこで今回は、いつもと少々趣向を変えて、チェルカスキ―の素顔を忠実に伝えるべく、インタビュー中の様子をそのまま再現してみた。

――先日はすばらしい演奏を聴かせてくださって、ありがとうございました。チェルカスキ―さんは、演奏の前は何か縁起をかつぐというか、おまじないというか、特別にしていることがおありとか…。
チェルカスキ―(以下C) いや、縁起をかつぐというよりもすべて一分の狂いもなく物が並んでいないと気がすまないんだよ。ピアノ、せっけん、プログラムなどすべてがね。それと練習するときにきっちりと時間を計る時計がないと絶対ダメ。これを日本人はきちんと守ってくれるから、100パーセント信頼できる。日本人は私と似ている面が多いので気が合う。ここのホテルでも、日本人がいかに先を見越して行動するかを見ることができて楽しい。朝食のときだって、おつりをすぐに渡してくれるし、こういう点がヨーロッパじゃ遅いからねえ。
 日本人は常に先のことを考えるでしょ。私は、20年前に食事したけど覚えているかとか、妹を覚えているかとか、そういう過去の話はまったく興味がない。過去は振り返らず、いつも先のことを考えていたい。ただ例外は過去に犯した過ちを2度と繰り返したくない、それだけだよ。
 ここまで話がくるのに、実は大変なまわり道をした。私がセットしてあるテープレコーダーを見ては、「あっ、私もこれと同じのをもっているよ」と、突然席を立ってテレコをもちにいってしまったり(そのテレコは私の物とは似ても似つかぬ物だったが)、初めて来日したときの演奏会の様子を聞いたら、案の定、過去の話は興味がないらしく「あのときは帝国ホテルに泊まってね、そのときの朝食が…」と、すぐに音楽から話が逸れてしまう。
――雑誌「ショパン」は、今年創刊10周年を迎えます。それからチェルカスキ―さんの新譜もショパンのピアノ・ソナタ第2番、第3番ということで、ショパンのピアノ・ソナタについてお話を伺いたいのですが…。
C ショパンっていうと、おもしろい話があってね、ひとつはジョークなんだが…。
――(あっ、また見事にかわされた)
C アメリカの田舎の家族が大金を手にしたけど、使い道がわからなくて、毎週水曜日に人を招いて豪華なディナーを開いたんだよね。しばらくしたら、主人の耳にみんなが彼の奥さんをバカにしているという噂が伝わり、彼は妻に余計なことはいわないようにと釘を刺した。
 ところが、その夜のディナーで、「ショパンはお好きですか」と聞かれた奥さんは、「ああ、彼なら2週間前、8番のバスのなかで見かけたわ」と答えてしまう。それを聞いた主人は、テーブルの下で妻の膝を蹴った。そして怒りの目を向けた奥さんに、「バカ、8番のバスはもう走っていないのを知らないのか」といったんだ。
――ああ、またまた話がどんどん逸れていってしまう。この後、チェルカスキ―は今度は本当にあった話、といって真面目な顔をし、彼がマヨルカ島にいったときの話を始めた。 
 それはショパンの直系の家族にあたる人がチェルカスキ―の演奏を聴き、彼のことを有名なピアニストとは知らず、「そう、ショパンはこう弾くべきなのよ」といってくれたので、とてもうれしかったということだった。
 でも、この間も「ちょっと暖房暑くない? 私はこれくらいじゃないとダメなんだけどね。毎朝泳いでいるんで」といいながら、立ったりすわったり。
 さらに、生まれ故郷のオデッサの音楽事情を聞こうとしたら、話はモスクワに飛び、チャイコフスキー国際コンクールまで一気にいってしまった。
――国際コンクールの審査員はなさっていませんが、チャイコフスキー国際コンクールでしたら、引き受けるつもりはありますか?
C あっ、この前優勝したのはだれだっけ? ボリス・ベレゾフスキー? ああ、知っているよ、その人。確か、ロンドンのアルバートホールで演奏したと思う。
――(ハズシ方がプロですよね)
C うん、実にうまかったなあ。だけど、音響がよくなかったのか、ときどきオーケストラの音にもぐっちゃって聴こえなかった。
――チェルカスキ―さんは、演奏する際に、そのときどきのインスピレーションを非常に大切にされるということですが、そのインスピレーションとは作品や演奏する場所、または指揮者との共演などに左右されるものでしょうか。
C 特にインスピレーションはないけど、心を動かされる場所というのはある。私はね、大きな都市か、反対に海辺とか田舎とか、そういう静かなところが好きなんだよ。中間はないね。そうそう、札幌はまだいったことがないなあ。とても大きな都市だと聞いているから、ぜひいってみたいんだが。

 そんなこんなで1時間のインタビューは過ぎ去ってしまった。いったい何を聞いたのか自分でもよくわからないし、中身がまったくなくて読者の方々にはとても申し訳ないと思う。しかし、ひとつだけわかったことは、チェルカスキ―という人は、自分に興味がある話には耳を傾けるが、少しでも興味がない話題は自然に耳を通り過ぎていってしまうことだ。
 だが、それがけっして嫌味であるとか、故意でないことははっきりしている。すべてをユーモアに変えてしまい、周囲を温かい雰囲気に包み込んでしまう。これはもう天賦の才能としかいいようがない。
 とにかくピアノを弾いているときが最高で、他のことはまったくかまわない。住んでいるのもホテルで、楽器と楽譜とごく身のまわりの物だけに囲まれ、ぜいたくは好まないらしい。そしてステージにすべてを賭ける。
 そんなチェルカスキ―は、最後に「オデッサでチャリティ・コンサートをするのが夢だ」といった。これはぜひ実現してほしい。その話題だったら、話を逸らさず、きっとまともに答えてくれるだろうな。
 ああ、自由にマイペースで生きることができる人ってうらやましい!

 今日の写真は、その雑誌の一部。写真撮影のとき、ピアノの前でポーズをとってほしいと頼んだら、ネクタイをしていないことに気づき、わざわざ時間をかけてステージ衣裳に着替えてくれた。う?ん、こんなことをしてくれる人も初めてだ。



 
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posted by 伊熊よし子 at 21:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | インタビュー・アーカイヴ

ファジル・サイ

 ファジル・サイは鬼才、奇才、真の天才と称される。彼はモーツァルトの録音で衝撃のデビューを果たし、以来ピアニストとして、作曲家として国際舞台で活躍。
 昨日は紀尾井ホールでオール・モーツァルト・プロによるリサイタルがあり、天上に駆け上っていくような嬉々としたモーツァルトを聴かせ、至福のときを味わわせてくれた。
 今日は、久しぶりにファジルに会い、インタビューを行った。以前は、相手の顔をまともに見られず、目が宙をさまよっているような表情をしていたが、今日のファジルは、まっすぐに私の眼を見て、再会を喜んでくれ、雄弁に語った。このインタビューは、来春の「CDジャーナル」に書く予定である。
 今回は、「インタビュー・アーカイヴ」第71回として、ファジル・サイを取り上げたい。もう16年前のインタビューである。

[FM fan 2000年11月27日?12月10日 No.25]

久々に元気なピアニストが登場!
「演奏がエキサイティングだって? ぼく自身は繊細な表現も十分にしているつもりなんだよ」 


生命力あふれるワクワクドキドキする演奏

 J.S.バッハ、ストラヴィンスキー、ガーシュウィンの録音でとてつもなく個性的で、聴き手の心を高揚させるエキサイティングなピアノを聴かせてくれたファジル・サイが、ついに10月に来日を果たし、すみだトリフォニーホールでコンサートを行った。
 プログラムは前半が「プレリュードとフーガ イ短調」「イタリア協奏曲」「シャコンヌ」というオール・バッハ。そして後半は、金聖響指揮新日本フィルとの共演によるガーシュウィンの「アイ・ガット・リズム変奏曲」「ラプソディ・イン・ブルー」という、彼がいまもっとも得意とするプログラム。そのいずれもが生命力あふれるワクワクドキドキする演奏で、何日経過してもその高揚感が失われることはなかった。
 サイはステージに登場したときから目は宙をさまよい、おじぎもそこそこにピアノの前にすわった。そして演奏が開始するやまわりはいっさい目に入らないような超没頭スタイルを披露、聴き手にも極度の集中力を要求するようなピアノを聴かせた。
 ただし、ステージを離れるとすこぶるシャイ。エキサイティングな演奏がうそのように背中を丸めてボソボソと低い声で話す。
「演奏がエキサイティングだって? 確かに世界のさまざまな都市でそういうふうに評価してくれるけど、ぼく自身は繊細な表現も十分にしているつもりなんだよ(笑)。特にモーツァルトの録音ではこのデリケートな表現というものが大切だからね。ぼくが録音した「キラキラ星変奏曲」や「トルコ行進曲」は子どもたちがとても親しみやすいと感じている曲だから、勢いと繊細さなどさまざまな表現を盛り込んで演奏した。子どもは敏感だからね。いい演奏をしないと聴いてくれないし、もちろんモーツァルトは大人にも広く愛されている作曲家。ぼくは自分が子どもだったころにこれらの作品に魅せられた。そのときの気持ちをいつまでも失わないようにしているんだ」
 
ピアノが自分の生涯の友であると確信

 5歳からピアノを始めた。両親は音楽家ではないが、とてもインテリジェンスな家庭環境だったとか。ちなみに父親は小説家である。
「ごく幼いころ、ぼくは耳から覚えた旋律をすぐにリコーダーやピアニカのような楽器で演奏してしまったらしい。それを見て、両親は何か楽器をやらせようと思い立った。トルコではクラシックか民族音楽を学ぶというのがふつうで、ぼくはクラシックを選んだというわけさ。家には本がたくさんあって、ピアノの練習以外はいつも本を読んでいるような子どもだった。それもモーツァルトやベートーヴェンの伝記や偉大な作曲家にまつわる本ばかり。子どもだったぼくは、その作曲家の子ども時代の生き方にとても共鳴した。いつか自分もそんなふうに曲が書きたい、そんなあこがれを抱いていたんだ」
 やがてアンカラ国立音楽院に進んだサイはピアノと作曲を学び、17歳のときに奨学金を得てデュッセルドルフのシューマン音楽院に留学する。
「15歳のころにはもうステージで演奏したんだけど、このころからピアノが自分の生涯の友であると確信していた。ピアノを弾くこと以外、ほかのことは考えられなかった。でも、ドイツではその考えが根底からくつがえされてしまった。19歳のころは孤独感にさいなまれ、楽器を弾くことも音楽を聴くこともまったくできない状態まで落ち込んだ。もう自分でもどうしたらいいかわからない精神状態だったよ」
 このころ就いていた先生はデイヴッド・レヴァイン。その彼はエイズにかかり、やがて亡くなってしまう。
「ショックだったよ。でも、先生と一緒に演奏したストラヴィンスキーの《春の祭典》(ピアノ版)は、一生忘れられない。すばらしい共演だったから。これはぼくを救ってくれた作品でもあるしね」
 実は、ピアノも弾けず音楽もいっさい聴かない日々を送っていたサイは、ある日思い切ってラジオのスイッチを入れる。そのとき流れてきたのが、アンタル・ドラティ指揮デトロイト交響楽団の演奏による《春の祭典》(オーケストラ版)。その演奏に心を動かされたサイは最後まで聴き、すぐに楽譜店にピアノ版のスコアを探しにいく。
「ストラヴィンスキーが実際に書いた4手のスコアを見つけ、それをとことん勉強した。この曲に出合って、ぼくは再び生きる喜びに目覚めたんだ。すぐに先生のところにいって、退院したら一緒に弾こうと話し合った。たった一度しかふたりで演奏できなかったけど、それは貴重な経験としてぼくの心に残った。それから10年間、これをひとりで演奏できないかと考え、企画を温めていたわけなんだ」
 レヴァインの死後、サイはベルリン・アカデミーに移り、ここでピアノを教える仕事に就く。そして25歳のとき、ニューヨークのヤング・コンサート・アーティスト国際オーディションで第1位を獲得。これが録音デビューにつながった。
 日本では12月にリリースされる予定のモーツァルト・アルバムが、ヨーロッパでブレイク、特にフランスでは破格の売り上げを記録している。
「フランスでモーツァルトが評価され、とてもいいスタートが切れた。演奏会も入ってきて、いま年間100回のコンサートをこなしている。とてもキツイけど、この生活を楽しんでいるよ。だってあの落ち込んでいたときから見たら、天国だもの。どんなにハードでもやり遂げなくちゃ。1回1回のコンサートに集中力をもって臨むのは大変だけど、いまは突っ走るよ。でも、一番問題なのは作曲する時間が限られること。もう少ししたら、時間を調整して作曲の時間を確保するようにするつもり。自作だけでコンサートもしたいしね」

音の向こうに見えるものから実際の音を

 ストラヴィンスキーは10年間温めてから自分だけの演奏で多重録音をし、その後バッハやガーシュウィンもじっくり練った選曲で録音にこぎつけた。さらに今年はモントルーやパリ、イスタンブールなどのジャズ・フェスティヴァルにも参加、自作やトルコの音楽を自身のバンドで演奏した。
 彼はこのように自国の音楽を世界に広めたいという強い意志ももっている。
「トルコの民族音楽や宗教音楽は、とても美しい旋律とリズムをもっているんだよ。行進曲のような軍隊を思わせる曲が広く知られているけど、実際は祈りの音楽や自然を賛美したもの、民族のルーツを伝えるものなどが多い。特にぼくが気に入っているのはイスラムの音楽で、スーフィというもの。これは多分CDのワールドミュージックのコーナーにいくと売っていると思う。中東やバルカン半島の音楽に近い感じかな。そうしたものをほくは自作に取り入れて、世界の舞台で演奏していきたい。バルトークやロシアの作曲家が自分たちの民謡や舞曲を大切にしたようにね。ぼくは作曲するときはその音符の先に見えるもの、音の向こうに見えるものを想像して実際の音を生み出していく。日本の音楽にもどこか共通しているところがあると思うけど、音で人生を語り、生き方を問い、自分自身を率直に表現したいんだ」
 現在はニューヨークに居を移し、多忙な日々を送るサイだが、そのなかでも時間を見つけて大好きな映画を見るようにしている。ジャンルは問わず、さまざまな映画を見るそうだが、特に印象に残っているのは「シンドラーのリスト」と「パルプフィクション」。
「将来は映画音楽を書いてみたい。これは大きな夢といえるかもしれない。映画はいいよね、さまざまな創造力を与えてくれる。昔からドストエフスキー、トルストイ、そしてドイツの作品など本をたくさん読んでいるけど、いつもそれらに視覚的なイメージを重ね合わせている。そして音楽もそこから湧いてくる。いまはトルコの詩をよく読むんだ。詩というのは、そのことばが完全に理解できるものでないと深いところまで理解できないよね。だから詩はやはり母国語のものに限る。トルコの詩はすばらしいんだ。手放しでほめたたえちゃうよ(笑)」
 いまピアノ協奏曲を作曲中だという。来年はパリでトルコの若手作曲家の作品の世界初演も行う予定。久々登場した元気なピアニストは、さまざまな活動で私たちを驚かせてくれる。

 このインタビューから16年、この間ファジル・サイは世界中のホールや音楽祭や記念行事の場から作曲依頼が入る作曲家に成長。ピアニストとしては、モーツァルトのピアノ・ソナタ全集をリリースした(エイベックス)。恥ずかしそうな笑顔は変わらないが、話すときの視線はすっかり変わった。
 昨夜のモーツァルトの演奏も見事だったが、ファジルの成熟した姿に触れることができ、感慨もひとしおだった。
 今日の写真は、そのときの雑誌の一部と、今日のインタビュー後の1枚。にこやかに話していたのに、写真を撮るといったら急に堅い表情になってしまった。やっぱりシャイな素顔は変わらない(?)





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posted by 伊熊よし子 at 23:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | インタビュー・アーカイヴ
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