2019年06月17日
宮沢明子
「日本各地に温かいファンが待っていてくれるから」と、日本と自宅のあるベルギーを年に7回も往復して演奏活動を精力的に行っている宮沢明子。彼女はいつ会ってもエネルギッシュで雄弁で明るい。人生に対する確固たる目標と夢を持ち、音楽に一生を捧げる真摯で純粋な生きかたは、ピアノの音に全面的に現れる。ただし、ここまでの人生はけっして平坦ではなく、山あり谷あり。さまざまな苦難を持ち前の負けじ魂で克服し、ひたすらいい音楽を演奏しようと前進してきた。その前向きな精神が「宮沢明子」のピアノを個性と説得力あるものにしている。
宮沢明子がベルギーに住まいを構えてから、もうずいぶんときが経つ。以前のアントワープ郊外の美しい緑に囲まれた家には一度取材で伺ったことがあるが、その後1990年に彼女は引っ越しをした。その家も広大な森のなかにあり、なんと敷地面積は1万5000坪。東京の地価とはくらべものにならない安さだそうだが、ここはそれまで養豚場だったとか。そこに室内プールと野菜の温室を備えた家を建てた。もちろん主役はピアノ練習室。ひとり静かにじっくり音楽と向かい合うため、静かなこの地を選んだ。
引っ越した当初はこの家を「馬小屋」と呼んでいた。それにはわけがある。
「バス・バリトンのホセ・ファン・ダムが私が引っ越す2年前に“もうジェット機の犠牲になるのは嫌だ“といって、あんなに世界中のオペラハウスで活躍していたのに、突如ベルギーの田舎の牧場のそばの馬小屋を買って移り住んじゃったの。“これからは牛と馬と犬と音楽を愛して生きていきたい、お金なんかいらない”といって。これを聞いて私も引っ越しちゃったわけ」
その家で宮沢明子はじっくり本を読み、自然のなかで音楽する楽しみを味わっている。自然に囲まれて練習していると心の底からファンタジーが湧いてくるといって。
ただし、引っ越しの理由はもうひとつ大きなことが影響していた。1988年に父親が亡くなった。そのときの日本での病院の対応にひどく落胆した彼女は、85歳の母親にはもっと豊かで落ち着いた老後を過ごしてほしいと考え、よき理解者であるカメラマンの夫、ギイ・クルガールさんの協力を得て母親の面倒をベルギーで見ることに決めたのである。そのための家を探した結果、静かな森に囲まれた家が見つかったという次第だ。
「母はそれから10年、私と夫とともに暮らしました。私は演奏活動で忙しいため、主人が親身になって世話をしてくれました。2000年に95歳で私の腕のなかで亡くなりましたが、その前年までは飛行機にも乗り、私の演奏会はいつも花道のところで聴いてくれました。母はすばらしいピアニストでしたから、音楽をよく理解している。いつも音楽に関してきびしい目をもっていました」
宮沢明子は演奏が終わると、いつも母親に感想を求めた。
「ねえ、お母さん、今日の演奏どうだった?」
母親は答える。
「とってもよかったわよ。でも、次はもっとよくなるわ」
宮沢明子はこの母からピアノを習った。2歳8カ月のころから母のひざに乗って彼女の弾くピアノを聴いてきた。祖母は教会のオルガニストだった。そして父親は長野県の弁護士の家に生まれたが、大変なクラシック好きで、自身もドイツ・リートを習うなどしていたが、就職先は銀行だった。宮沢家には明子の上に年の離れた兄がひとりいるが、彼もドイツ音楽を愛している。
「みんな音楽が好きでした。でも、私は子どものころから変わった子といわれ、先生のいう通りに弾くような子ではなかったの。学校でも友だちには恵まれないし、先生からも敬遠された。でも、この子には何かがあるといって目をかけてくれた先生もいました。それが桐朋学園の斎藤英雄先生。学校の記念コンサートでも、私をモーツァルトのコンチェルトのソリストに選んでくださり、ジュリアード音楽院に留学して周囲の人たちとうまく折り合わなくて悩んでいたときも、相談に乗ってくれました」
彼女は名前の通り、本来は明るい性格。独特のハスキーな声と早口が特徴である。だが、昔からみんなに迎合することなくわが道を行くタイプゆえ、いわゆる「いじめ」にもずいぶん遭った。自律心が強く、15歳からアルバイトをして親に頼らず生活費を稼ぐようなたくましさも備えていた。ジュリアード音楽院に留学したころも、ベビーシッターをしながらひたすら音楽の勉強をした。
コンサートグランドで練習したい一心で、朝5時に起きて学校の練習室の一番前に並び、いいピアノを確保してひたすら練習に励んだ。しかし、こうした行動は周囲から浮いてしまい、結局ヨーロッパに移ることになる。
「私はそのころからディヌ・リパッティに心酔していて、ジュネーヴにリパッティの最後の弟子であるベラ・シキがいるということがわかり、師事するために飛んでいったの。いつも考えるより先に行動してしまうから失敗も多いけど、とにかく気の合わない人たちと一緒にいるよりも、純粋に音楽と向き合いたかった。それからずっとヨーロッパが私の拠点。シプリアン・カツァリスとは姉弟のような関係で、そのほかにも本当に理解しあえる音楽家は何人もいるの。でも、ふだんの私は人づきあいは悪いし、パーティには行かないし、家にも人を呼ばないから気難しいと思われている。ピアニストはひとりで勉強する時間がなにより大切。だから変わっていると思われている。これは昔からね(笑)」
しかし、彼女は自分の演奏会に追われているにもかかわらず、大好きなミエチスラフ・ホルショフスキーの演奏会にはたとえ地の果てでも聴きに行くほどの情熱を傾けた。
「ホルショフスキーが95歳のときにカザルスホールで演奏したのを聴いて以来、人生観が変わっちゃったのよ。あのステージに出てくるときの歩きかた、とぼとぼって。あれ見ただけでもう感激しちゃって…。あれは90年以上音楽に自分のすべてを捧げ、作曲家に演奏のすべてを捧げた人の歩きかただと思うわ。ピアニストってステージに出てきただけで演奏がわかってしまうのよ」
1987年12月9日、ホルショフスキーは95歳で初来日し、カザルスホールのこけら落としで演奏した。バッハの「イギリス組曲」第5番、モーツァルトのピアノ・ソナタ第12番、ショパンの即興曲、ポロネーズ、スケルツォの各第1番などがプログラムに組まれた。そして鳴りやまない拍手に応え、アンコールにはショパンのノクターンやメンデルスゾーンの「無言歌集」より「紡ぎ歌」などを次々に演奏した。
「もう涙が止まりませんでした。どうしてこんなに泣けるのかと考えたら、それは正直な音楽だから。そして生涯が青春に彩られている人の音楽。ピアノを弾くのが彼の青春の証し。だからどんなに年齢を重ねても音がけっして枯れない。もう私は涙で顔がくしゃくしゃになってしまい、そのまま楽屋にいって“あなたの音楽を心から愛しています!”っていったものだから、ホルショフスキーはびっくりしちゃって(笑)。そのときに彼は“モーツァルトは80歳過ぎてようやく少し自信がつきました。まだまだ勉強ですが”といったの。このことばに私はまた涙涙。そして1にも2にもスケールの練習が大切なことと、ピアニストはひとつひとつ階段を上がるものだといってくれたの。そしてピアニストとしてやってはいけないことを聞いたら、アルコールだとおっしゃった。私はワインが大好きで家の地下にワイン蔵までもっていましたが、その日からピタッとお酒はやめました」
ホルショフスキーがカーネギーホールで演奏したときも、母親と夫とともにいち早く駆けつけ、楽屋で再会した。
「ホルショフスキーのパーティには女性がたくさん押し寄せるの。彼はひとりひとりの名前を覚えていて、とてもうれしそうに思い出話をしている。いろんな恋を経験しているのね。それがピアノの音に出ているもの」
そして話はルービンシュタインに移る。
「まだジュリアードの学生だったころ、ルービンシュタインに会ったのね。そのときに私は“一番難しい曲は何ですか?”って聞いたの。そしたらルービンシュタインはなんて答えたと思う。“それはね、ハ長調の音階だよ”っていったのよ。そのときはエーッて思ったけど、いまはこのことばの意味がよくわかるわ。ルービンシュタインはこうもいった。“60過ぎてから、今日は少しいい演奏になったかなと思うようになった。70過ぎたらもうちょっと彩りのいい音が出るだろう”って。そしてひとつの曲を1万5000回弾きなさいっていわれたの。すごいでしょう」
彼女はギレリスの音楽にも魅せられた。 ギレリスは一時期ソ連を背負っているという意識のためか、完璧な演奏を目指していたという。とにかくまちがえたら国のために申し訳ないと思い、1曲を何万回となくさらった。エリーザベト王妃国際コンクールの前身であるイザイ・コンクールに優勝したころのことである。それがあるときから変わった。そして彼は宮沢明子に楽屋でこういった。
「芸術家というのは一生勉強だが、その演奏は完璧なものを目指してはいけない。半出来という状態が一番いいと思うよ」
これはギレリスの長い演奏活動の結果生まれた含蓄あることばだ。宮沢明子はリリー・クラウスも大好きだそうだ。60歳を過ぎてもピンクのかわいいドレスでステージに現れたクラウスにも共感を覚えるという。そのかわいらしさが演奏に表れているから。
「ホルショフスキーによって教えられるところが大きいんだけど、要するにあせらないことよね。私も生涯賭けてじっくりとピアノに取り組んでいきたい。どんなに時間がなくても、睡眠時間を短くしても、常にしっかりさらわないとダメなの。私の奏法は指の腹で弾く方法。日本は指を上げて弾く人が多いの。そうすると音が立ってしまってレガートにならない。鍵盤のできるだけ近いところで指の腹をあてて弾くと無理がないの」
ホルショフスキーもルービンシュタインもみんなこの弾きかただそうだ。
ところで、彼女はこれまで各地でマスタークラスや各種のレッスンを多く行い、さまざまな生徒の演奏に触れてきた。そのなかで日本人の子どものレッスンに関して、とても難しい問題があるという。子どもに質問しても、その母親が必ずといっていいほど口をはさむからだ。母親がすべて話す場合もある。これには困ってしまう。子どもも委縮し、からたが硬直し、音楽を愛する芽を摘み取ってしまうことにもなるからだ。
「母親は子どもの意思を尊重すべきです。その子をここまでするのにどれだけお金がかかったかなどとはけっしていってほしくない。私は韓国でも生徒を多く見ていますが、母親は子どもを先生に預けたら、後方でじっと静かに見守っています。これこそ、親のあるべき姿だと思います。日本のお母さんも、ぜひそうした姿勢をもってほしいですね」
宮沢明子は率直な人である。「嘘は嫌い」と明言する彼女は、真っ正直ゆえ誤解されることも多い。だが、音楽はそんな彼女の心をそのまま映し出す。そしてホルショフスキーに涙したように、いまは宮沢明子のピアノで頬を濡らす人が後を絶たない。
心に残る恩師の言葉
私の音楽の恩師は、ホルショフスキーとルービンシュタインのふたりだと思っています。彼らの演奏と生きる姿勢からは、本当に多くのものを受取ったからです。ふたりとも、年齢を重ねてもなお勉強勉強の日々を送り、作品に真摯に寄り添い、練習を怠らなかった。そういう人が紡ぎ出す音楽のなんとすばらしいことか。こういう演奏が聴き手の心に真の感動を届けるのだと、いつも頭を垂れて聴き入り、自然に涙が頬を伝わったものです。私も生涯ピアノとともにありたい、生涯現役を貫きたい。彼らがそれを教えてくれました。