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宮沢明子

 ピアニストの宮沢明子が、4月23日にベルギー・アントワープの病院で亡くなった。享年77。
 明子さんには、ずいぶんインタビューや取材を続けてきた。1987年の夏にはアントワープのご自宅にもおじゃまし、自然に囲まれた広大な敷地のなかに建つ家で、おいしいランチをごちそうになった。
「インタビュー・アーカイヴ」の第79 回は、その彼女を偲んで記事を紹介したいと思う。

「ムジカノーヴァ」2009年11月号

「日本各地に温かいファンが待っていてくれるから」と、日本と自宅のあるベルギーを年に7回も往復して演奏活動を精力的に行っている宮沢明子。彼女はいつ会ってもエネルギッシュで雄弁で明るい。人生に対する確固たる目標と夢を持ち、音楽に一生を捧げる真摯で純粋な生きかたは、ピアノの音に全面的に現れる。ただし、ここまでの人生はけっして平坦ではなく、山あり谷あり。さまざまな苦難を持ち前の負けじ魂で克服し、ひたすらいい音楽を演奏しようと前進してきた。その前向きな精神が「宮沢明子」のピアノを個性と説得力あるものにしている。


宮沢明子がベルギーに住まいを構えてから、もうずいぶんときが経つ。以前のアントワープ郊外の美しい緑に囲まれた家には一度取材で伺ったことがあるが、その後1990年に彼女は引っ越しをした。その家も広大な森のなかにあり、なんと敷地面積は1万5000坪。東京の地価とはくらべものにならない安さだそうだが、ここはそれまで養豚場だったとか。そこに室内プールと野菜の温室を備えた家を建てた。もちろん主役はピアノ練習室。ひとり静かにじっくり音楽と向かい合うため、静かなこの地を選んだ。

引っ越した当初はこの家を「馬小屋」と呼んでいた。それにはわけがある。

「バス・バリトンのホセ・ファン・ダムが私が引っ越す2年前に“もうジェット機の犠牲になるのは嫌だ“といって、あんなに世界中のオペラハウスで活躍していたのに、突如ベルギーの田舎の牧場のそばの馬小屋を買って移り住んじゃったの。“これからは牛と馬と犬と音楽を愛して生きていきたい、お金なんかいらない”といって。これを聞いて私も引っ越しちゃったわけ」 

その家で宮沢明子はじっくり本を読み、自然のなかで音楽する楽しみを味わっている。自然に囲まれて練習していると心の底からファンタジーが湧いてくるといって。

ただし、引っ越しの理由はもうひとつ大きなことが影響していた。1988年に父親が亡くなった。そのときの日本での病院の対応にひどく落胆した彼女は、85歳の母親にはもっと豊かで落ち着いた老後を過ごしてほしいと考え、よき理解者であるカメラマンの夫、ギイ・クルガールさんの協力を得て母親の面倒をベルギーで見ることに決めたのである。そのための家を探した結果、静かな森に囲まれた家が見つかったという次第だ。

「母はそれから10年、私と夫とともに暮らしました。私は演奏活動で忙しいため、主人が親身になって世話をしてくれました。2000年に95歳で私の腕のなかで亡くなりましたが、その前年までは飛行機にも乗り、私の演奏会はいつも花道のところで聴いてくれました。母はすばらしいピアニストでしたから、音楽をよく理解している。いつも音楽に関してきびしい目をもっていました」

 宮沢明子は演奏が終わると、いつも母親に感想を求めた。

「ねえ、お母さん、今日の演奏どうだった?

 母親は答える。

「とってもよかったわよ。でも、次はもっとよくなるわ」

 宮沢明子はこの母からピアノを習った。28カ月のころから母のひざに乗って彼女の弾くピアノを聴いてきた。祖母は教会のオルガニストだった。そして父親は長野県の弁護士の家に生まれたが、大変なクラシック好きで、自身もドイツ・リートを習うなどしていたが、就職先は銀行だった。宮沢家には明子の上に年の離れた兄がひとりいるが、彼もドイツ音楽を愛している。

「みんな音楽が好きでした。でも、私は子どものころから変わった子といわれ、先生のいう通りに弾くような子ではなかったの。学校でも友だちには恵まれないし、先生からも敬遠された。でも、この子には何かがあるといって目をかけてくれた先生もいました。それが桐朋学園の斎藤英雄先生。学校の記念コンサートでも、私をモーツァルトのコンチェルトのソリストに選んでくださり、ジュリアード音楽院に留学して周囲の人たちとうまく折り合わなくて悩んでいたときも、相談に乗ってくれました」

彼女は名前の通り、本来は明るい性格。独特のハスキーな声と早口が特徴である。だが、昔からみんなに迎合することなくわが道を行くタイプゆえ、いわゆる「いじめ」にもずいぶん遭った。自律心が強く、15歳からアルバイトをして親に頼らず生活費を稼ぐようなたくましさも備えていた。ジュリアード音楽院に留学したころも、ベビーシッターをしながらひたすら音楽の勉強をした。

コンサートグランドで練習したい一心で、朝5時に起きて学校の練習室の一番前に並び、いいピアノを確保してひたすら練習に励んだ。しかし、こうした行動は周囲から浮いてしまい、結局ヨーロッパに移ることになる。

「私はそのころからディヌ・リパッティに心酔していて、ジュネーヴにリパッティの最後の弟子であるベラ・シキがいるということがわかり、師事するために飛んでいったの。いつも考えるより先に行動してしまうから失敗も多いけど、とにかく気の合わない人たちと一緒にいるよりも、純粋に音楽と向き合いたかった。それからずっとヨーロッパが私の拠点。シプリアン・カツァリスとは姉弟のような関係で、そのほかにも本当に理解しあえる音楽家は何人もいるの。でも、ふだんの私は人づきあいは悪いし、パーティには行かないし、家にも人を呼ばないから気難しいと思われている。ピアニストはひとりで勉強する時間がなにより大切。だから変わっていると思われている。これは昔からね()

しかし、彼女は自分の演奏会に追われているにもかかわらず、大好きなミエチスラフ・ホルショフスキーの演奏会にはたとえ地の果てでも聴きに行くほどの情熱を傾けた。

「ホルショフスキーが95歳のときにカザルスホールで演奏したのを聴いて以来、人生観が変わっちゃったのよ。あのステージに出てくるときの歩きかた、とぼとぼって。あれ見ただけでもう感激しちゃって…。あれは90年以上音楽に自分のすべてを捧げ、作曲家に演奏のすべてを捧げた人の歩きかただと思うわ。ピアニストってステージに出てきただけで演奏がわかってしまうのよ」

1987129日、ホルショフスキーは95歳で初来日し、カザルスホールのこけら落としで演奏した。バッハの「イギリス組曲」第5番、モーツァルトのピアノ・ソナタ第12番、ショパンの即興曲、ポロネーズ、スケルツォの各第1番などがプログラムに組まれた。そして鳴りやまない拍手に応え、アンコールにはショパンのノクターンやメンデルスゾーンの「無言歌集」より「紡ぎ歌」などを次々に演奏した。

「もう涙が止まりませんでした。どうしてこんなに泣けるのかと考えたら、それは正直な音楽だから。そして生涯が青春に彩られている人の音楽。ピアノを弾くのが彼の青春の証し。だからどんなに年齢を重ねても音がけっして枯れない。もう私は涙で顔がくしゃくしゃになってしまい、そのまま楽屋にいって“あなたの音楽を心から愛しています!”っていったものだから、ホルショフスキーはびっくりしちゃって()。そのときに彼は“モーツァルトは80歳過ぎてようやく少し自信がつきました。まだまだ勉強ですが”といったの。このことばに私はまた涙涙。そして1にも2にもスケールの練習が大切なことと、ピアニストはひとつひとつ階段を上がるものだといってくれたの。そしてピアニストとしてやってはいけないことを聞いたら、アルコールだとおっしゃった。私はワインが大好きで家の地下にワイン蔵までもっていましたが、その日からピタッとお酒はやめました」

ホルショフスキーがカーネギーホールで演奏したときも、母親と夫とともにいち早く駆けつけ、楽屋で再会した。

「ホルショフスキーのパーティには女性がたくさん押し寄せるの。彼はひとりひとりの名前を覚えていて、とてもうれしそうに思い出話をしている。いろんな恋を経験しているのね。それがピアノの音に出ているもの」

 そして話はルービンシュタインに移る。

「まだジュリアードの学生だったころ、ルービンシュタインに会ったのね。そのときに私は“一番難しい曲は何ですか?”って聞いたの。そしたらルービンシュタインはなんて答えたと思う。“それはね、ハ長調の音階だよ”っていったのよ。そのときはエーッて思ったけど、いまはこのことばの意味がよくわかるわ。ルービンシュタインはこうもいった。“60過ぎてから、今日は少しいい演奏になったかなと思うようになった。70過ぎたらもうちょっと彩りのいい音が出るだろう”って。そしてひとつの曲を15000回弾きなさいっていわれたの。すごいでしょう」

 彼女はギレリスの音楽にも魅せられた。 ギレリスは一時期ソ連を背負っているという意識のためか、完璧な演奏を目指していたという。とにかくまちがえたら国のために申し訳ないと思い、1曲を何万回となくさらった。エリーザベト王妃国際コンクールの前身であるイザイ・コンクールに優勝したころのことである。それがあるときから変わった。そして彼は宮沢明子に楽屋でこういった。

「芸術家というのは一生勉強だが、その演奏は完璧なものを目指してはいけない。半出来という状態が一番いいと思うよ」

 これはギレリスの長い演奏活動の結果生まれた含蓄あることばだ。宮沢明子はリリー・クラウスも大好きだそうだ。60歳を過ぎてもピンクのかわいいドレスでステージに現れたクラウスにも共感を覚えるという。そのかわいらしさが演奏に表れているから。

「ホルショフスキーによって教えられるところが大きいんだけど、要するにあせらないことよね。私も生涯賭けてじっくりとピアノに取り組んでいきたい。どんなに時間がなくても、睡眠時間を短くしても、常にしっかりさらわないとダメなの。私の奏法は指の腹で弾く方法。日本は指を上げて弾く人が多いの。そうすると音が立ってしまってレガートにならない。鍵盤のできるだけ近いところで指の腹をあてて弾くと無理がないの」

 ホルショフスキーもルービンシュタインもみんなこの弾きかただそうだ。 

 ところで、彼女はこれまで各地でマスタークラスや各種のレッスンを多く行い、さまざまな生徒の演奏に触れてきた。そのなかで日本人の子どものレッスンに関して、とても難しい問題があるという。子どもに質問しても、その母親が必ずといっていいほど口をはさむからだ。母親がすべて話す場合もある。これには困ってしまう。子どもも委縮し、からたが硬直し、音楽を愛する芽を摘み取ってしまうことにもなるからだ。

「母親は子どもの意思を尊重すべきです。その子をここまでするのにどれだけお金がかかったかなどとはけっしていってほしくない。私は韓国でも生徒を多く見ていますが、母親は子どもを先生に預けたら、後方でじっと静かに見守っています。これこそ、親のあるべき姿だと思います。日本のお母さんも、ぜひそうした姿勢をもってほしいですね」

 宮沢明子は率直な人である。「嘘は嫌い」と明言する彼女は、真っ正直ゆえ誤解されることも多い。だが、音楽はそんな彼女の心をそのまま映し出す。そしてホルショフスキーに涙したように、いまは宮沢明子のピアノで頬を濡らす人が後を絶たない。


心に残る恩師の言葉


 私の音楽の恩師は、ホルショフスキーとルービンシュタインのふたりだと思っています。彼らの演奏と生きる姿勢からは、本当に多くのものを受取ったからです。ふたりとも、年齢を重ねてもなお勉強勉強の日々を送り、作品に真摯に寄り添い、練習を怠らなかった。そういう人が紡ぎ出す音楽のなんとすばらしいことか。こういう演奏が聴き手の心に真の感動を届けるのだと、いつも頭を垂れて聴き入り、自然に涙が頬を伝わったものです。私も生涯ピアノとともにありたい、生涯現役を貫きたい。彼らがそれを教えてくれました。

posted by 伊熊よし子 at 22:13 | インタビュー・アーカイヴ

マリア・ジョアン・ピリス

 先日、マリア・ジョアン・ピリスの引退公演を聴き、深い感動が胸に迫ってくるのを感じた。
 ピリスには長年に渡ってインタビューを行い、さまざまな話を聞いてきた。
 かなり前のことになるが、彼女がポルトガルのベルガイシュ村に拠点をもって教育活動を行っていたとき、ひとりのピアニストとして人間としてのピリスを取材し、さまざまな形で紹介し、軽井沢でその活動を再現するようなプロジェクトが企画された。
 数人のチームが結成され、私は取材とインタビューとすべての記事を担当することになった。そして何度かチームでの話し合いがもたれたが、ピリス側とのやりとりが困難を極め、日本側の考えとピリス側の考えが微妙に食い違い、その溝がどんどん深まってしまい、企画はすべて白紙に戻される形となってしまった。
 以来、来日するごとにピリスは私に「どうして、あのプロジェクトはあんなにこじれてしまったの? 一番の理由は何なのよ」と詰め寄られたが、私が答える立場にはなかったため、明快な返答はできなかった。
 いま思い返してみても、いい企画だったのに、残念で仕方がない。
 そのころ、ピリスはNHKテレビ「スーパーピアノレッスン」の講師を務めることになった。そのテキストにピリスのことを綴った。「インタビュー・アーカイヴ」の第78回は、それを紹介したいと思う。

[スーパービアノレッスン]2008年夏

 音楽は人生を豊かにし、人々を救う力があると信じているピリス。演奏のみならず教育や社会活動も行い、人間同士の触れ合いの大切さを説く。夢はシューベルトが親しい友人を集めて行っていた「シューベルティアーデ」のような小規模で親密な演奏会で、音楽、演劇、舞踊などあらゆる芸術を組み合わせたコミュニケーションの場を作ること。
「私、ようやく夢をかなえることができそうなのよ。長年考え続けていた計画を実行に移す時期がきたの。ベルガイシュはとても辺鄙なところだけど、豊かな自然が息づき、人々は素朴で温かい。私にとっての理想郷なの!」
 マリア・ジョアン・ピリスがベルガイシュに芸術研究のためのセンターを創立したのは、1999年のことだった。それが実現されるかなり前に、彼女はこのビッグニュースを知らせてくれた。そのときの夢見る少女のような表情は、いまだ忘れることができない。
 ピリスに話を聞くときは、常に音楽の内奥に深く根差す、多分に精神論的なシリアスな内容になることが多い。しかし、ベルガイシュという名を口にした途端、瞳は明るく輝き、いつにも増して雄弁になった。構想は当初かなり大きなものだったが、近年さまざまな事情からベルガイシュの活動は中止されることになった。現在はその哲学と教育をスペインのサラマンカやブラジルのサルヴァドール、バヒアなどに広めている。
 ピリスがこうした活動に目を向けるようになったのは、若いころに一時期腕を痛め、まったくピアノが弾けない状態になったことに端を発する。それを克服し、さらに家庭的な危機も乗り越え、ピリスは自分が何をすべきか、どう生きるべきかを追及するようになる。そして本当に自分のしたいことをしよう、と考える。20年以上前から、彼女は演奏以外に多くの時間を割くようになっていく。
「仕事や勉強などにトラブルが生じ、自分に危機感を抱いている人たちが集まる場所を提供し、芸術全般を通して彼らとコミュニケーションをとるという、いわゆる修繕学校のようなものを開きたいの。それに最近の若い演奏家はコンクールで優勝して名が出ると、周囲がちやほやするから自分は特別なんだという気持ちになってしまう。演奏は単なるビジネスになって商業主義に振り回され、早い時期に自信を失って音楽から離れてしまう。そういう人を何人も見ているけど、たまらない気持になるの。その人たちに対して私ができることはないか、そればかり考えているわ」
 ピリス自身、子どものころから「天才少女」と称され、デビュー後はスター扱いされた。年の割には多くのお金が入ってきて、特別な存在だといわれる。そうされればされるほど、彼女の心は重くなっていった。自分を特別だと考える、そのおごりが演奏に表れてしまうからだ。ごくふつうの人間でありたい、その気持ちを忘れないようにしたい、若いピリスはその狭間で毎日悩んでいた。
 そんな彼女を救ってくれたのが、恩師のカール・エンゲルである。彼はピリスの気持ちをリラックスさせ、自分の方向を明確に見定めるという方法を伝授してくれた。
「重要なのは、自分が求めているものをずっと探し求めていく気持ちをもつことだと教えられたの。音楽によって自分の探しているものを見つけ出し、表現する。音楽はとても深く、一生を捧げるのに十分価値があるものだから」
 こうした話を聞くと、いつも心が浄化するような思いにとらわれる。生きていくことに真摯なピリスはインタビューでも最大限誠意を尽くす。自分の話を本当に理解してもらえるだろうかと、常に相手の表情を見ている。そして真の意味が伝わったとわかると、そのつどにっこりと笑いかける。
 このほほ笑みのなんと魅力的なことか。派手なことを好まず、自然素材の洋服を着てほとんどノーメイクだが、とてもチャーミング。来日中も多忙なためインタビューのオーケーをとるのも至難の業だが、いつもこのやさしい眼差しに接すると、それまでの困難が霧散していく。
 ピリスの演奏は、研ぎ澄まされた鋭角的な音色と歯切れのよい躍動感あふれるリズム感に支えられたもので、ひたむきな性格と作品をこよなく愛す気持ちが演奏にそのまま投影されている。もっとも印象的なのは、集中力である。
 彼女の集中力というのは驚異的で、それは「音楽は別世界」と何度も口にすることからもうかがえる。これはプライヴェートな面で何が起きようと、いったん演奏が始まれば完全に音楽のなかに入っていけることを意味している。それが無理なくできるそうだ。驚くべきは作品との対峙のしかた。ピリスは毎日多くても3時間ほどしか練習しない。あとは家事をしながら、さまざまな仕事をこなしながら、頭のなかで音楽を考えている。頭のなかで音楽と対話しているから、ピアノに向かうのはごく短時間でいいという。これこそ、集中力の賜物なのだろう。
 しかし、ピリスも人間である。1994年の来日公演ではそれがリアルに現れた。実はこの来日中、ピリスは再愛の母を失った。その訃報を聞いた後、彼女は黒のシンプルなドレスでヴァイオリニストのオーギュスタン・デュメイとステージに登場した。心持ち目線が下向きでいつものやわらかな笑顔は見られなかったが、演奏は崇高な美しさに彩られたものだった。ピリスは演奏がうまくいくよう、必死の思いで神に祈りながら弾いているように見えた。
 このとき、感動的だったのはデュメイのやさしさ。彼は懸命にピリスをサポートし、彼女の音楽をいつもの演奏に戻そうと全身全霊を使い、弦で呼びかけていた。私は目頭が熱くなった。彼らはともに「演奏は神への奉仕」と表現している。私はその意味合いが、この日の演奏に接して初めて深く理解できたような気がした。 
 彼らはモーツァルト、グリーグ、フランクなどの録音を残しているが、ブラームスは「男性が弾く曲」と考えて敬遠していたピリスを長い時間かけて説得し、録音に導いたのはデュメイの力である。一方、ピリスの得意とするソロ作品はモーツァルトとショパンとシューベルト。いずれも温かい血の通った人間が弾いているというヒューマンな演奏である。
 ここに2000年、ベートーヴェンの「月光」の静謐で詩的で洞察力あふれる録音が加わった。これはベルガイシュで録音された、唯一の貴重な宝物である。
 2007年冬、ピリスはたった1度のコンサートのために来日し、情感豊かで歌心あふれるシューベルトの即興曲とピアノ・ソナタを披露した。そんな彼女にシューベルト観を聞くと‥。
「シューベルトに近づくにはありのままの自分と向き合わなければならず、頭で音楽を考えすぎるとうまくいかない。これがシューベルトは難しいといわれる理由でしょうね」
 シューベルトは人生の痛みや病気をすべて受け入れ、深い包容力をもって短い人生を生き抜いた。それを演奏で伝えたいと彼女は付け加えた。そこには何年たっても変わらぬ、真摯で自己を律する凛としたピリスがいた。

 このインタビューから何年も経過しているが、ピリスの根底に流れている音楽への思いは変わらない気がする。そして彼女の生き方も…。
 今日の写真は、2009年のインタビュー時に撮ったもの。担当者の要望により、サイン帳にサインをしているところ。

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posted by 伊熊よし子 at 21:06 | インタビュー・アーカイヴ

クラウス・フロリアン・フォークト

 昨日は、「東京・春・音楽祭」の「東京春祭ワーグナー・シリーズvol.9」『ローエングリン』を聴きに、東京文化会館に出かけた。
 今回の主役、タイトルロールを歌うのは、クラウス・フロリアン・フォークトだ。
 昨年9月、フォークトはバイエルン国立歌劇場日本公演でワーグナーの『タンホイザー』のタイトルロールを歌い絶賛されたが、その来日時にインタビューを行い、今回の『ローエングリン』について話を聞いた。
 インタビュー・アーカイヴ第77回はそのフォークトの登場。

ワーグナーを歌い終えた後の達成感は最高です

「ぶらあぼ」2018年1月号

 2017年9月、バイエルン国立歌劇場来日公演で、ドイツの偉大なヘルデン・テノール、クラウス・フロリアン・フォークトはワーグナー『タンホイザー』のタイトルロールを歌い、絶賛された。そのフォークトの次なる日本公演は、2018年3月〜4月の「東京・春・音楽祭」のワーグナー『ローエングリン』のタイトルロール。東京春祭ワーグナー・シリーズのVol.9にあたり、全3幕ドイツ語上演、演奏会形式で、約4時間30分(休憩2回含む)におよぶ。
「オペラの演奏会形式というスタイルは、演出や舞台装置がない分、音楽に集中できます。視覚的要素がありませんから、自分ですべてを作り出していかなければなりません。『ローエングリン』という人物を自分なりの方法で表現し、説得力をもって聴衆に伝えていかなくてはならないのです。でも、そこにはとても自由な裁量が可能となり、私自身はやりがいがあると感じています。音楽がすべてですから、歌に全面的に集中し、『ローエングリン』という役柄を感じ取ってほしいと思います」
 フォークトはこれまで何度も大きな舞台で『ローエングリン』を歌っている。最初にこの役を歌ったのは、2002年ドイツのエアフルト歌劇場だった。ほどなく同役で国際的な評価を得、06年メトロポリタン歌劇場、07年ミラノ・スカラ座、08年ウィーン国立歌劇場、11年バイロイト音楽祭へと歩みを進めている。
「それぞれの公演は演出がまったく異なり、メトロポリタンではローエングリンがつかみどころのない、人工的な人物として描かれました。スカラ座では確固たる構造の演出で、美的な物語となっていました。バイロイトでは近づきがたい人物として演じることになり、私自身新たな発見が数多くありました。いずれの舞台も、歌唱と演技と表現力と解釈などすべてを自分のなかで咀嚼し、その場に合わせたローエングリン像を作り出さねばなりません。それは大変なことですが、また楽しみでもあります。歌うごとに自分のなかで新たなローエングリンが生まれるからです」
 ワーグナーを歌うのは大きな喜びであり、歌い終わった後の達成感は最高だと語る。
「ワーグナーを歌うのはテノールにとってとても名誉なことであり、また常に挑戦を強いられます。歌唱法、表現力、演技力、そして歌詞の発音など、すべてにおいて完璧を求められるからです。『ローエングリン』を初めて歌ったのは15年前ですが、最初はフィナーレまでどうしたら最高の声を維持できるかがわからず、苦労しました。でも、指揮者や演出家が自由に歌わせてくれたため、ひとつひとつの本番で学ぶことができました。いまは、15年前より表現力が増したと感じていますし、作品により近づくことができたと思っています」
 毎回毎回が勝負だという。1回の舞台に全身全霊を傾け、2度と同じ歌は歌えないと。
「そこがオペラの醍醐味ではないでしょうか。生きた音楽、ナマの声、その場だけの臨場感あふれる舞台。そこで私は完全燃焼するわけです。どんな役でもその気持ちは変わりません。役になりきるために周到な準備を怠りませんが、その日の気分や調子で少しずつ表現や歌が変わる。それを楽しんでいるわけです」
 今回、共演する指揮者のウルフ・シルマーとは気心に知れた仲である。
「シルマーさんとはオペレッタで共演し、録音もしています。とても気持ちよく仕事ができましたし、すばらしい体験でした。彼は集中して正確な仕事をする人ですから、信頼感が生まれます。久しぶりに日本で共演するのが、とても楽しみです」
 フォークトは「東京春祭 歌曲シリーズ」の2回のリサイタルにも登場し、ドイツ・リートやオペレッタを歌う。1回目はハイドン、ブラームス、マーラー、R.シュトラウスの歌曲を、2回目は妻であるシルヴィア・グルーガーを迎え、リートからミュージカル『ウエスト・サイド物語』までをデュエットやソロで聴かせる。
「さまざまな歌曲を歌います。長年歌い込んできた曲ばかりです。私はいま、シューベルトの『冬の旅』を歌う準備に入っています。オペラではワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』が視野に入ってきています。ただし、もう少し時間が必要です。まずは、新たな『ローエングリン』を聴いていただきたいと思います」

 まさに昨日の『ローエングリン』は、フォークトの新たな魅力が全開したステージだった。声量も増し、役柄に対する洞察力も深くなり、長丁場のステージを一瞬たりとも弛緩することなく、緊迫感と集中力と情熱が支配する圧巻の演奏だった。
 4月8日には、もう1公演行われる。フォークトは先日のリート・リサイタルでもそうだったが、すべて完全暗譜で、聴き手に語りかけるように、訴えかけるようにうたう。抑制された演技も加わり、まさしくプロフェッショナルという姿勢を貫く。またしても、ヘルデン・テノールの醍醐味を満喫した一夜となった。
 今日の写真は、その雑誌の一部。

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posted by 伊熊よし子 at 22:29 | インタビュー・アーカイヴ
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