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ベートーヴェンゆかりの家 3

  ベートーヴェンの家の第3回は、交響曲第9番「合唱付き」が書かれた家。
  この家は、ウィーンの国立歌劇場前から電車で約1時間、タクシーに乗れば30分ほどの緑豊かな町、バーデンにある。ウィーンの森のはずれに位置し、昔から温泉保養地として有名だ。
  ベートーヴェンの時代には、豊かな自然とぶどう畑などが多く見られ、シューベルト、J.シュトラウスをはじめとする音楽家、グリルパルツァーらの文学者もこの地をしばしば訪れている。
  ベートーヴェンが「第九」の大部分を作曲した家(Rathausgasse10)は町の中心に現存し、彼が使用した2階の部屋は展示室となっており、見学可能である。ここには、ベートーヴェンの親しかった画家ヨハン・ダンハウザーによるベートーヴェンのデスマスクなどもある。
  1821年いっぱいは病気がちだったベートーヴェンも、翌年には再び健康を取り戻し、懸案だった「ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ)」の作曲にとりかかった。これは「第九」と並び称される大作で、後期のベートーヴェンが到達した高度な声楽的・器楽的様式が全曲を貫く傑作である。
  このころは「ディアベリ変奏曲」の構想もかたまりつつあり、多忙を極めた。この作品は、ベートーヴェン最大の変奏曲で、変奏技法の集大成ともいうべきものであり、J.S.バッハの「ゴルトベルク変奏曲」とともに、鍵盤楽器のための作品の最高傑作とされる。
  ベートーヴェンはオーバーデーブリングやテープリッツなどに湯治に行きながらもこれらの作品とほぼ同時に「第九」の筆も進めていった。
  そしていよいよバーデンに移った1823年8月後半からは、「第九」の創作に全身全霊を打ち込むようになる。完成を見たのは翌年1824年2月中旬。だが、初演にこぎつけるのがまた大変な作業となった。なにしろ、「第九」は規模の大きな作品。その練習も時間がかかり、また当時のウィーンではイタリア音楽が優勢で、ロッシーニのオペラがウィーンの聴衆の心をつかんでいた。
  ベートーヴェンはこのような状況のウィーンで「第九」と「ミサ・ソレムニス」の初演をするのを危惧し、ベルリンで行おうとしたが、それを知った友人や貴族たちがベートーヴェンを説得し、ついに「第九」はケルントナー劇場で演奏されることになった。
  熱狂的な支持を受けた「第九」だったが、指揮者のかたわらで指示を与えていたベートーヴェンは、曲が終わってもみんなの拍手が聴こえず、棒立ち。そんなベートーヴェンを聴衆の方へ向き直らせたのは、アルトのカロリーネ・ウンガーだった。
  作品の成功も名声も得たベートーヴェンではあったが、必ずしも経済的には樂ではなかったようだ。作曲や演奏をしている姿を見られるのを極度に嫌った彼は大変な引っ越し魔で、約35年過ごしたウィーンで、判明しているだけでも40軒をくだらない。
  そのなかで、このバーデンの家はたいそう気に入り、自然に囲まれたなかで創作が進められた。現在も、町の中心にある公園の高台から市内を臨む風景は、当時の面影を色濃く残している。
  ここは山が近いからか、結構風が強い。以前は、風光明媚で静かな町だったが、現在は市内に大きなカジノなども建設され、世界各地からの観光客が多く、にぎやかな都市に変貌した。
  写真は、バーデンのベートーヴェン・ハウス(ベートーヴェン博物館)。ちょうど改装工事中で、玄関の位置が変えられていたのにはびっくり。
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  その家の壁に掲げられているプレート。
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  ベートーヴェンが「第九」の第4楽章の合唱の部分の構想を練ったと伝えられている、ハイリゲンシュタットのメイヤーの家。現在は、ホイリゲになっている。
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  バーデンの公園に建つヨハン・シュトラウス2世とヨーゼフ・ランナーの像。
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posted by 伊熊よし子 at 21:54 | 麗しき旅の記憶

ベートーヴェンゆかりの家 2

  ベートーヴェンの家の第2回は、遺書が書かれたハイリゲンシュタットの家。
  ウィーン郊外のハイリゲンシュタットは、現在では多くの家が建ち並ぶ住宅街。ベートーヴェン時代ののどかな田園風景や田舎の静けさなどはすっかり姿を消しているが、やはりここは高級住宅街。どの家も敷地が広く、緑に囲まれ、立派な家ばかりだ。
  住宅街を抜けると、森のなかに「ベートーヴェン・ガング」と呼ばれるベートーヴェンの散歩道が残っている。ここには、いまでもあの交響曲第6番「田園」の発想を得たという小川は健在。ほんの一部の細い流れが見られるだけだが、ここだけは昔の面影を伝えていて、樹々の揺らぐ音や小鳥のさえずりも変わっていない。かたわらのベンチにすわると、どこからか「田園」の第1楽章が聴こえてきそうだ。
  だが、ベートーヴェンがハイリゲンシュタットの遺書を書いた家を訪れると、胸がキシキシと音をたてて痛むのがわかる。いまではこのあたりもホイリゲが増え、人々が陽気にワイングラスを傾けているが、ベートーヴェンの住まいとその周囲は、当時のままだ。
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  ベートーヴェンは22歳であこがれのウィーンでハイドンの弟子となり、作曲のかたわらピアニストとしても活躍。ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」、第14番「月光」、交響曲第1番、ピアノ協奏曲第1番などの代表作を次々に生み出していく。ベートーヴェンは29歳を迎えていよいよ交響曲作曲家としてのスタートを切ったのである。斬新で美しい音楽はウィーンの人々の心をとらえ、出版も開始された。
  しかし、このころから彼はだれにもいえない深い悩みを抱えるようになっていく。聴覚の異常である。いろいろな治療も効果はなく、悪化するばかり。ハイリゲンシュタットに移って交響曲第2番の構想を練るベートーヴェンは音楽家として致命的なこの病に耐え切れず、ついに1802年10月6日、弟たちに宛てて手紙をしたためた。これが有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」である。
  書き出しはベートーヴェンを人間嫌いの変人扱いする世間に対し、自分は耳が聴こえない悩みがあるのだと告白し、「私は喜びをもって死に急ぐ」と結んでいる。だが、ベートーヴェンは苦悩を吐き出したあと再び力強く生きる決心をしたため、この遺書は死後発見されることになった。
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  これ以後、ベートーヴェンの創作力は以前にも増して充実し、交響曲第3番「英雄」、第5番「運命」、第6番「田園」、歌劇「フィデリオ」、「ミサ・ソレムニス」、「ディアベリ変奏曲」という大作を完成させていく。
  ヴァイオリン・ソナタ第7番も、遺書が書かれたころに作曲されている。ロシア皇帝アレクサンダー2世に献呈された作品30の3曲のなかでも傑出した作品となっており、これから生まれる「傑作の森」と呼ばれる作品群の先駆け的な存在で、強い説得力と緊迫した曲想が身上だ。ただし、各楽章の主題は明快で親しみやすく、難解な感じや暗さはほとんど感じさせない。
  曲は交響曲第5番「運命」やピアノ協奏曲第3番、ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」などと同じハ短調で書かれ、ベートーヴェンの傑作を特徴付ける調性となっている。これはヴァイオリンとピアノが同等に対話し、豊かなデュオを繰り広げる作品。息の合ったヴァイオリニストとピアニストの共演が必要となる。
  写真は 展示されているベートーヴェンの髪の毛。
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  ハイリゲンシュタットでベートーヴェンが住んだ家を示す石版の地図。広場に掲げられている。
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posted by 伊熊よし子 at 16:51 | 麗しき旅の記憶

ベートーヴェンゆかりの家 1

  今年はベートーヴェン生誕250年のメモリアルイヤー。これを記念して国内外の多くのアーティストがベートーヴェンの作品をプログラムに組んだコンサートを予定していたが、いまはほとんどそれが行われていない。
  そこで、以前ヤマハのWEB「音楽ジャーナリストの眼」に書いた「ベートーヴェンゆかりの家」をプレーバックしたいと思う。少しでもベートーヴェンに近づいていただけたら幸いである。
  まず、交響曲第3番「英雄」を書いたといわれる「エロイカハウス」から(Doblinger Hauptstrabe92、1190Wien)。ここは現在、博物館となっており、見学可能である。ただし、2週間前までに電話で申し込むことが必要(tel +43 1 369 14 24)。
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  ベートーヴェンは1803年ここに移り、「英雄」とピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」、ピアノ・ソナタ第23番「熱情」を作曲した。ウィーン市内の北方に位置するこの家は、当時ぶどう畑や牧草地が広がり、湯治場としての要素も備え、ベートーヴェンが愛する緑豊かな土地だった。
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  交響曲第3番「英雄」は、ハイドンやモーツァルトの影響から脱し、ベートーヴェン独自のスタイルを確立した交響曲で、従来このジャンルに見られなかった壮大なスケールと自由な楽想が特徴となっている。ベートーヴェンの交響曲でホルンが3本になったのはこの曲からで、特に第3楽章はベートーヴェンが書いたスケルツォ(3拍子の快活な曲)の最高傑作といわれ、中間部におけるホルン三重奏の野趣あふれる響きが印象的だ。
  これは有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いた直後の1804年に完成され、翌年の初演は作曲者の指揮によって行われている。 ベートーヴェンは耳が聴こえないという苦悩を吐き出した後、再び生きる勇気をもち、以前にも増して創造力を充実させていく。
   当初、楽譜の表紙には「ボナパルト」の文字が書かれ、革命の英雄ナポレオンに捧げられるはずだったが、権力を手に入れた彼に失望し、「ひとりの英雄のために」と書き換えられた。革命の寵児として登場したナポレオンがフランス皇帝として戴冠したという知らせを聞いたベートーヴェンは、その場で表紙を切り裂き、「彼もふつうの人間だった。多くの人権を踏みにじる独裁者になるだろう」と叫んだと弟子のリースは伝えている。
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  第1楽章から勝利を謳歌する力強い曲想がみなぎり、有名な第2楽章の「葬送行進曲」に続く。そして疾風のような第3楽章へと進み、息詰まるようなクライマックスを築く。
  この「エロイカハウス」にはベートーヴェンの遺品の数々が展示され、特に「英雄」の楽譜の「ボナパルト」の文字を荒々しく消した表紙が強い印象をもたらす。
  現在は、ヘッドホンでヘルベルト・フォン・カラヤンをはじめ名盤と称される録音を聴くこともでき、リアリティをもって「英雄」と対峙できる。
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posted by 伊熊よし子 at 20:59 | 麗しき旅の記憶
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