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アレーナ・ディ・ヴェローナ

  真夏の暑さがひとつの思い出を脳裏に蘇らせる。
  イタリアの夏の風物詩、アレーナ・ディ・ヴェローナ音楽祭である。
  2019年にはヴェルディの歌劇「イル・トロヴァトーレ」が上演され、それがDVDとしてリリースされた。その紹介を兼ねて、ヴェローナでの様子をヤマハWEB「音遊人」に綴った。
  私が現地で撮ってきた写真も使用しているので、ぜひ雰囲気を楽しんでくださいね。  
posted by 伊熊よし子 at 16:11 | 麗しき旅の記憶

ベートーヴェンゆかりの家 5

  ベートーヴェンの家の第5回は、ボンの生家。ここは世界最多のベートーヴェン・コレクションを備えた記念館で、ベートーヴェン・ハウスと呼ばれている。
  ボン市内の中心に位置するボンガッセ20番地にあり、ボンとウィーン時代の楽譜、手紙、楽器、肖像画、文書など、ベートーヴェンのオリジナル資料が150点以上展示されている。
  現在、ベートーヴェン・ハウスはふたつの建物からなり、1889年には取り壊しの危機に遭遇したが、ボン市民の有志12人がベートーヴェン協会を設立して建物を買い取り、修復して記念館にしたという。その後、1944年10月18日の爆撃では、当時の大家が身を挺して家屋を守り、この建物は無事に戦禍を逃れたというエピソードも伝えられている。
  この建物の3階右側の屋根裏部屋はベートーヴェンの生まれたところで、ベートーヴェンの像が置いてあり、以前は小さな部屋だったが、現在は後方部分が増築された。
  中庭にはベートーヴェンのふたつの像が置かれ、隣接した室内楽ホールのいちばん上の窓からは、この像を眺めることができる構造となっている。
  ベートーヴェンは21歳までボンで暮らし、その後ウィーンに移った。ボンでは選帝侯や貴族など、ベートーヴェンの才能を高く評価し、経済面と精神面の両方で支援を惜しまない人が多かった。ボヘミア出身のワルトシュタイン伯爵もそのひとり。ベートーヴェンがハイドンに師事するためウィーンに出発するとき、「たゆまない努力をもって、モーツァルトの精神をハイドンの手から受け取りたまえ」という有名なことばを贈っている。
  ベートーヴェンはその生涯に32曲のピアノ・ソナタを残し、それらはピアニストにとってバイブルとも称される作品となっているが、第21番「ワルトシュタイン」はこのフェルディナント・ワルシュタイン伯爵に献呈された作品である。
  作曲は1803年から翌年にかけて行われ、1804年夏に完成を見た。このころベートーヴェンの創作は飛躍の時期を迎え、ヴァイオリン・ソナタ「クロイツェル」、交響曲「英雄」、ピアノ・ソナタ「熱情」、歌劇「フィデリオ」などが次々に生み出され、独自の様式を築き上げている。「ワルトシュタイン」は中期の到来を告げる傑作で、壮麗な技巧と雄大な構図、豊かな抒情性を備えている。
  第1楽章は印象的な8分音符和音のppの刻みに始まり、煌めくような第1主題が高音域に現れ、第1主題の3つの主要素が提示されていく。やがてドルチェ・エ・モルト・リガートと指示されたコラール風の第2主題が登場、ふたつの主題の対照性を見せる。
  第2楽章は巨大な第1楽章と次なるロンドをつなぐ美しい楽章で、ためらうようにうたわれる主題がやがて力強い歌となり、それらが対話風に拡大されてロンドへと流れ込む。
  第3楽章はボン地方の民謡からとられたとされる素朴で幸福感あふれるロンド主題が全編を覆い、それが幾重にも様相を変化させ、至難な技巧を盛り込んでコーダへと進む。
  生涯を通じて常に新たな表現方法を探求し続けたベートーヴェンが、ピアノ・ソナタにおける様式の改革をもたらしたとされる作品が「ワルトシュタイン」。斬新かつドラマティックで、野心的な冒険心を感じさせるソナタとなっている。
  写真は、生家の外観。以前は左側だけが見学可能だったが、現在は右側部分も入館でき、内部にはデジタルコレクションもあり、ベートーヴェンの生涯を俯瞰することができる。
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  中庭から見た生家。ここからのながめは、ベートーヴェンの時代をほうふつとさせる。
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  中庭に置かれたベートーヴェン像。
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  同じく、中庭に置かれたベートーヴェンの絵。ガラスケースのなかに保存されている。
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  ボンのベートーヴェン・ハレ(コンサートホール)の前庭に置かれたベートーヴェンの現代彫刻。
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posted by 伊熊よし子 at 17:06 | 麗しき旅の記憶

ベートーヴェンゆかりの家 4

  ベートーヴェンの家の第4回は、ウィーン1区のメルカーバスタイ8に現存するパスクラッティの家。
  この家は宮廷御用達の商人だったパスクラッティ男爵の邸宅で、ベートーヴェンは1804年から1815年の間、断続的に住んでいた。暮らしたのは最上階のかなり広い部屋で、ここでは交響曲第4番、第5番「運命」、第7番、歌劇「フィデリオ」、序曲「レオノーレ」第3番、ピアノ協奏曲第4番、ヴァイオリン協奏曲、弦楽四重奏曲作品59、95などが書かれている。
  この家は高台にあり、ベートーヴェンの時代には眺望が最高だったようだ。ただし、5階まで階段は150段もあり、上り下りが大変だったという記録が残されている。
  実際に訪れてみると、最上階まで上るのはとても体力を要し、病気が進行していたベートーヴェンにはさぞ大変だったろうと思われる。それでも、創作力は衰えず、この家では傑作の数々が誕生している。作品をざっと見てみると…。
  交響曲第5番「運命」は、ベートーヴェン自身が「運命はこのように扉を叩く」と称した”タタタターン”という4つの音符による荒々しい主題で始まる。この作品には、人間の喜怒哀楽の感情がすべて凝縮して盛り込まれている。耳が不自由なベートーヴェンが「遺書」を書いた後、その死の淵から生還し、再び強く生きる決心をした意志の強さがうかがえる劇的な作品。第1楽章では、ホルンと弦楽器による第2主題も扉を叩くリズムをモチーフとしている。
   交響曲第7番は、ワーグナーが「舞踏の聖化」と形容した生命力あふれる交響曲である。各楽章ともそれぞれ基本となる鋭いリズムによって貫かれ、それらが全体に生気を与えている。ベートーヴェンのたくましい力が存分に発揮された作品で、初演も熱狂的な支持を受け、大成功を博した。そのとき第2楽章がアンコールとして再演されたが、これは「不滅のアレグレット」と呼ばれる哀愁に富んだ美しい旋律をもつ。
   ヴァイオリン協奏曲は、アン・デア・ウィーン劇場管弦楽団のコンサートマスターを務めていたフランツ・クレメントのために書かれたコンチェルト。曲の仕上がりがぎりぎりとなり、クレメントは初見で初演に臨んだという。雄大な規模と光輝で平穏な雰囲気をたたえ、技巧よりも歌謡性に重点が置かれている。印象的な第3楽章は、明快なリズムに乗ったロンドで、オーケストラとヴァイオリン・ソロが交互に音楽を盛り上げる。
   こうした多くの名曲が生まれたパスクラッティの家。ここは現在、ウィーン市内唯一のベートーヴェン・ハウスとして一般公開されている。昔の城壁が残る高台の上に建っていることになり、下の道路から坂道を上っていくと、威風堂々とした館が出迎えてくれる。
   写真は、パスクラッティ家の外観。立派な石造りの建物で、当時の様子を偲ぶことができる。
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  その家の壁に掲げられているプレートで、ウィーンの歴史的建造物や史跡には必ずこの紅白のリボンが付されたプレートが備え付けられている。
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  ベートーヴェンが暮らした部屋。愛用のシュトライヒャー製作のピアノが置かれ、ペダルは5本仕様だ。
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   ベートーヴェンの部屋からの眺望。当時ははるかかなたまで見渡せたという。
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posted by 伊熊よし子 at 21:06 | 麗しき旅の記憶
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