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ベートーヴェンゆかりの家 5

  ベートーヴェンの家の第5回は、ボンの生家。ここは世界最多のベートーヴェン・コレクションを備えた記念館で、ベートーヴェン・ハウスと呼ばれている。
  ボン市内の中心に位置するボンガッセ20番地にあり、ボンとウィーン時代の楽譜、手紙、楽器、肖像画、文書など、ベートーヴェンのオリジナル資料が150点以上展示されている。
  現在、ベートーヴェン・ハウスはふたつの建物からなり、1889年には取り壊しの危機に遭遇したが、ボン市民の有志12人がベートーヴェン協会を設立して建物を買い取り、修復して記念館にしたという。その後、1944年10月18日の爆撃では、当時の大家が身を挺して家屋を守り、この建物は無事に戦禍を逃れたというエピソードも伝えられている。
  この建物の3階右側の屋根裏部屋はベートーヴェンの生まれたところで、ベートーヴェンの像が置いてあり、以前は小さな部屋だったが、現在は後方部分が増築された。
  中庭にはベートーヴェンのふたつの像が置かれ、隣接した室内楽ホールのいちばん上の窓からは、この像を眺めることができる構造となっている。
  ベートーヴェンは21歳までボンで暮らし、その後ウィーンに移った。ボンでは選帝侯や貴族など、ベートーヴェンの才能を高く評価し、経済面と精神面の両方で支援を惜しまない人が多かった。ボヘミア出身のワルトシュタイン伯爵もそのひとり。ベートーヴェンがハイドンに師事するためウィーンに出発するとき、「たゆまない努力をもって、モーツァルトの精神をハイドンの手から受け取りたまえ」という有名なことばを贈っている。
  ベートーヴェンはその生涯に32曲のピアノ・ソナタを残し、それらはピアニストにとってバイブルとも称される作品となっているが、第21番「ワルトシュタイン」はこのフェルディナント・ワルシュタイン伯爵に献呈された作品である。
  作曲は1803年から翌年にかけて行われ、1804年夏に完成を見た。このころベートーヴェンの創作は飛躍の時期を迎え、ヴァイオリン・ソナタ「クロイツェル」、交響曲「英雄」、ピアノ・ソナタ「熱情」、歌劇「フィデリオ」などが次々に生み出され、独自の様式を築き上げている。「ワルトシュタイン」は中期の到来を告げる傑作で、壮麗な技巧と雄大な構図、豊かな抒情性を備えている。
  第1楽章は印象的な8分音符和音のppの刻みに始まり、煌めくような第1主題が高音域に現れ、第1主題の3つの主要素が提示されていく。やがてドルチェ・エ・モルト・リガートと指示されたコラール風の第2主題が登場、ふたつの主題の対照性を見せる。
  第2楽章は巨大な第1楽章と次なるロンドをつなぐ美しい楽章で、ためらうようにうたわれる主題がやがて力強い歌となり、それらが対話風に拡大されてロンドへと流れ込む。
  第3楽章はボン地方の民謡からとられたとされる素朴で幸福感あふれるロンド主題が全編を覆い、それが幾重にも様相を変化させ、至難な技巧を盛り込んでコーダへと進む。
  生涯を通じて常に新たな表現方法を探求し続けたベートーヴェンが、ピアノ・ソナタにおける様式の改革をもたらしたとされる作品が「ワルトシュタイン」。斬新かつドラマティックで、野心的な冒険心を感じさせるソナタとなっている。
  写真は、生家の外観。以前は左側だけが見学可能だったが、現在は右側部分も入館でき、内部にはデジタルコレクションもあり、ベートーヴェンの生涯を俯瞰することができる。
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  中庭から見た生家。ここからのながめは、ベートーヴェンの時代をほうふつとさせる。
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  中庭に置かれたベートーヴェン像。
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  同じく、中庭に置かれたベートーヴェンの絵。ガラスケースのなかに保存されている。
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  ボンのベートーヴェン・ハレ(コンサートホール)の前庭に置かれたベートーヴェンの現代彫刻。
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posted by 伊熊よし子 at 17:06 | 麗しき旅の記憶

ベートーヴェンゆかりの家 4

  ベートーヴェンの家の第4回は、ウィーン1区のメルカーバスタイ8に現存するパスクラッティの家。
  この家は宮廷御用達の商人だったパスクラッティ男爵の邸宅で、ベートーヴェンは1804年から1815年の間、断続的に住んでいた。暮らしたのは最上階のかなり広い部屋で、ここでは交響曲第4番、第5番「運命」、第7番、歌劇「フィデリオ」、序曲「レオノーレ」第3番、ピアノ協奏曲第4番、ヴァイオリン協奏曲、弦楽四重奏曲作品59、95などが書かれている。
  この家は高台にあり、ベートーヴェンの時代には眺望が最高だったようだ。ただし、5階まで階段は150段もあり、上り下りが大変だったという記録が残されている。
  実際に訪れてみると、最上階まで上るのはとても体力を要し、病気が進行していたベートーヴェンにはさぞ大変だったろうと思われる。それでも、創作力は衰えず、この家では傑作の数々が誕生している。作品をざっと見てみると…。
  交響曲第5番「運命」は、ベートーヴェン自身が「運命はこのように扉を叩く」と称した”タタタターン”という4つの音符による荒々しい主題で始まる。この作品には、人間の喜怒哀楽の感情がすべて凝縮して盛り込まれている。耳が不自由なベートーヴェンが「遺書」を書いた後、その死の淵から生還し、再び強く生きる決心をした意志の強さがうかがえる劇的な作品。第1楽章では、ホルンと弦楽器による第2主題も扉を叩くリズムをモチーフとしている。
   交響曲第7番は、ワーグナーが「舞踏の聖化」と形容した生命力あふれる交響曲である。各楽章ともそれぞれ基本となる鋭いリズムによって貫かれ、それらが全体に生気を与えている。ベートーヴェンのたくましい力が存分に発揮された作品で、初演も熱狂的な支持を受け、大成功を博した。そのとき第2楽章がアンコールとして再演されたが、これは「不滅のアレグレット」と呼ばれる哀愁に富んだ美しい旋律をもつ。
   ヴァイオリン協奏曲は、アン・デア・ウィーン劇場管弦楽団のコンサートマスターを務めていたフランツ・クレメントのために書かれたコンチェルト。曲の仕上がりがぎりぎりとなり、クレメントは初見で初演に臨んだという。雄大な規模と光輝で平穏な雰囲気をたたえ、技巧よりも歌謡性に重点が置かれている。印象的な第3楽章は、明快なリズムに乗ったロンドで、オーケストラとヴァイオリン・ソロが交互に音楽を盛り上げる。
   こうした多くの名曲が生まれたパスクラッティの家。ここは現在、ウィーン市内唯一のベートーヴェン・ハウスとして一般公開されている。昔の城壁が残る高台の上に建っていることになり、下の道路から坂道を上っていくと、威風堂々とした館が出迎えてくれる。
   写真は、パスクラッティ家の外観。立派な石造りの建物で、当時の様子を偲ぶことができる。
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  その家の壁に掲げられているプレートで、ウィーンの歴史的建造物や史跡には必ずこの紅白のリボンが付されたプレートが備え付けられている。
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  ベートーヴェンが暮らした部屋。愛用のシュトライヒャー製作のピアノが置かれ、ペダルは5本仕様だ。
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   ベートーヴェンの部屋からの眺望。当時ははるかかなたまで見渡せたという。
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posted by 伊熊よし子 at 21:06 | 麗しき旅の記憶

ベートーヴェンゆかりの家 3

  ベートーヴェンの家の第3回は、交響曲第9番「合唱付き」が書かれた家。
  この家は、ウィーンの国立歌劇場前から電車で約1時間、タクシーに乗れば30分ほどの緑豊かな町、バーデンにある。ウィーンの森のはずれに位置し、昔から温泉保養地として有名だ。
  ベートーヴェンの時代には、豊かな自然とぶどう畑などが多く見られ、シューベルト、J.シュトラウスをはじめとする音楽家、グリルパルツァーらの文学者もこの地をしばしば訪れている。
  ベートーヴェンが「第九」の大部分を作曲した家(Rathausgasse10)は町の中心に現存し、彼が使用した2階の部屋は展示室となっており、見学可能である。ここには、ベートーヴェンの親しかった画家ヨハン・ダンハウザーによるベートーヴェンのデスマスクなどもある。
  1821年いっぱいは病気がちだったベートーヴェンも、翌年には再び健康を取り戻し、懸案だった「ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ)」の作曲にとりかかった。これは「第九」と並び称される大作で、後期のベートーヴェンが到達した高度な声楽的・器楽的様式が全曲を貫く傑作である。
  このころは「ディアベリ変奏曲」の構想もかたまりつつあり、多忙を極めた。この作品は、ベートーヴェン最大の変奏曲で、変奏技法の集大成ともいうべきものであり、J.S.バッハの「ゴルトベルク変奏曲」とともに、鍵盤楽器のための作品の最高傑作とされる。
  ベートーヴェンはオーバーデーブリングやテープリッツなどに湯治に行きながらもこれらの作品とほぼ同時に「第九」の筆も進めていった。
  そしていよいよバーデンに移った1823年8月後半からは、「第九」の創作に全身全霊を打ち込むようになる。完成を見たのは翌年1824年2月中旬。だが、初演にこぎつけるのがまた大変な作業となった。なにしろ、「第九」は規模の大きな作品。その練習も時間がかかり、また当時のウィーンではイタリア音楽が優勢で、ロッシーニのオペラがウィーンの聴衆の心をつかんでいた。
  ベートーヴェンはこのような状況のウィーンで「第九」と「ミサ・ソレムニス」の初演をするのを危惧し、ベルリンで行おうとしたが、それを知った友人や貴族たちがベートーヴェンを説得し、ついに「第九」はケルントナー劇場で演奏されることになった。
  熱狂的な支持を受けた「第九」だったが、指揮者のかたわらで指示を与えていたベートーヴェンは、曲が終わってもみんなの拍手が聴こえず、棒立ち。そんなベートーヴェンを聴衆の方へ向き直らせたのは、アルトのカロリーネ・ウンガーだった。
  作品の成功も名声も得たベートーヴェンではあったが、必ずしも経済的には樂ではなかったようだ。作曲や演奏をしている姿を見られるのを極度に嫌った彼は大変な引っ越し魔で、約35年過ごしたウィーンで、判明しているだけでも40軒をくだらない。
  そのなかで、このバーデンの家はたいそう気に入り、自然に囲まれたなかで創作が進められた。現在も、町の中心にある公園の高台から市内を臨む風景は、当時の面影を色濃く残している。
  ここは山が近いからか、結構風が強い。以前は、風光明媚で静かな町だったが、現在は市内に大きなカジノなども建設され、世界各地からの観光客が多く、にぎやかな都市に変貌した。
  写真は、バーデンのベートーヴェン・ハウス(ベートーヴェン博物館)。ちょうど改装工事中で、玄関の位置が変えられていたのにはびっくり。
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  その家の壁に掲げられているプレート。
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  ベートーヴェンが「第九」の第4楽章の合唱の部分の構想を練ったと伝えられている、ハイリゲンシュタットのメイヤーの家。現在は、ホイリゲになっている。
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  バーデンの公園に建つヨハン・シュトラウス2世とヨーゼフ・ランナーの像。
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posted by 伊熊よし子 at 21:54 | 麗しき旅の記憶
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