2020年05月01日
ベートーヴェンゆかりの家 2
ベートーヴェンの家の第2回は、遺書が書かれたハイリゲンシュタットの家。
ウィーン郊外のハイリゲンシュタットは、現在では多くの家が建ち並ぶ住宅街。ベートーヴェン時代ののどかな田園風景や田舎の静けさなどはすっかり姿を消しているが、やはりここは高級住宅街。どの家も敷地が広く、緑に囲まれ、立派な家ばかりだ。
住宅街を抜けると、森のなかに「ベートーヴェン・ガング」と呼ばれるベートーヴェンの散歩道が残っている。ここには、いまでもあの交響曲第6番「田園」の発想を得たという小川は健在。ほんの一部の細い流れが見られるだけだが、ここだけは昔の面影を伝えていて、樹々の揺らぐ音や小鳥のさえずりも変わっていない。かたわらのベンチにすわると、どこからか「田園」の第1楽章が聴こえてきそうだ。
だが、ベートーヴェンがハイリゲンシュタットの遺書を書いた家を訪れると、胸がキシキシと音をたてて痛むのがわかる。いまではこのあたりもホイリゲが増え、人々が陽気にワイングラスを傾けているが、ベートーヴェンの住まいとその周囲は、当時のままだ。
ベートーヴェンは22歳であこがれのウィーンでハイドンの弟子となり、作曲のかたわらピアニストとしても活躍。ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」、第14番「月光」、交響曲第1番、ピアノ協奏曲第1番などの代表作を次々に生み出していく。ベートーヴェンは29歳を迎えていよいよ交響曲作曲家としてのスタートを切ったのである。斬新で美しい音楽はウィーンの人々の心をとらえ、出版も開始された。
しかし、このころから彼はだれにもいえない深い悩みを抱えるようになっていく。聴覚の異常である。いろいろな治療も効果はなく、悪化するばかり。ハイリゲンシュタットに移って交響曲第2番の構想を練るベートーヴェンは音楽家として致命的なこの病に耐え切れず、ついに1802年10月6日、弟たちに宛てて手紙をしたためた。これが有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」である。
書き出しはベートーヴェンを人間嫌いの変人扱いする世間に対し、自分は耳が聴こえない悩みがあるのだと告白し、「私は喜びをもって死に急ぐ」と結んでいる。だが、ベートーヴェンは苦悩を吐き出したあと再び力強く生きる決心をしたため、この遺書は死後発見されることになった。
これ以後、ベートーヴェンの創作力は以前にも増して充実し、交響曲第3番「英雄」、第5番「運命」、第6番「田園」、歌劇「フィデリオ」、「ミサ・ソレムニス」、「ディアベリ変奏曲」という大作を完成させていく。
ヴァイオリン・ソナタ第7番も、遺書が書かれたころに作曲されている。ロシア皇帝アレクサンダー2世に献呈された作品30の3曲のなかでも傑出した作品となっており、これから生まれる「傑作の森」と呼ばれる作品群の先駆け的な存在で、強い説得力と緊迫した曲想が身上だ。ただし、各楽章の主題は明快で親しみやすく、難解な感じや暗さはほとんど感じさせない。
曲は交響曲第5番「運命」やピアノ協奏曲第3番、ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」などと同じハ短調で書かれ、ベートーヴェンの傑作を特徴付ける調性となっている。これはヴァイオリンとピアノが同等に対話し、豊かなデュオを繰り広げる作品。息の合ったヴァイオリニストとピアニストの共演が必要となる。
写真は 展示されているベートーヴェンの髪の毛。
ハイリゲンシュタットでベートーヴェンが住んだ家を示す石版の地図。広場に掲げられている。
posted by 伊熊よし子 at 16:51
| 麗しき旅の記憶