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ベートーヴェンゆかりの家 4

  ベートーヴェンの家の第4回は、ウィーン1区のメルカーバスタイ8に現存するパスクラッティの家。
  この家は宮廷御用達の商人だったパスクラッティ男爵の邸宅で、ベートーヴェンは1804年から1815年の間、断続的に住んでいた。暮らしたのは最上階のかなり広い部屋で、ここでは交響曲第4番、第5番「運命」、第7番、歌劇「フィデリオ」、序曲「レオノーレ」第3番、ピアノ協奏曲第4番、ヴァイオリン協奏曲、弦楽四重奏曲作品59、95などが書かれている。
  この家は高台にあり、ベートーヴェンの時代には眺望が最高だったようだ。ただし、5階まで階段は150段もあり、上り下りが大変だったという記録が残されている。
  実際に訪れてみると、最上階まで上るのはとても体力を要し、病気が進行していたベートーヴェンにはさぞ大変だったろうと思われる。それでも、創作力は衰えず、この家では傑作の数々が誕生している。作品をざっと見てみると…。
  交響曲第5番「運命」は、ベートーヴェン自身が「運命はこのように扉を叩く」と称した”タタタターン”という4つの音符による荒々しい主題で始まる。この作品には、人間の喜怒哀楽の感情がすべて凝縮して盛り込まれている。耳が不自由なベートーヴェンが「遺書」を書いた後、その死の淵から生還し、再び強く生きる決心をした意志の強さがうかがえる劇的な作品。第1楽章では、ホルンと弦楽器による第2主題も扉を叩くリズムをモチーフとしている。
   交響曲第7番は、ワーグナーが「舞踏の聖化」と形容した生命力あふれる交響曲である。各楽章ともそれぞれ基本となる鋭いリズムによって貫かれ、それらが全体に生気を与えている。ベートーヴェンのたくましい力が存分に発揮された作品で、初演も熱狂的な支持を受け、大成功を博した。そのとき第2楽章がアンコールとして再演されたが、これは「不滅のアレグレット」と呼ばれる哀愁に富んだ美しい旋律をもつ。
   ヴァイオリン協奏曲は、アン・デア・ウィーン劇場管弦楽団のコンサートマスターを務めていたフランツ・クレメントのために書かれたコンチェルト。曲の仕上がりがぎりぎりとなり、クレメントは初見で初演に臨んだという。雄大な規模と光輝で平穏な雰囲気をたたえ、技巧よりも歌謡性に重点が置かれている。印象的な第3楽章は、明快なリズムに乗ったロンドで、オーケストラとヴァイオリン・ソロが交互に音楽を盛り上げる。
   こうした多くの名曲が生まれたパスクラッティの家。ここは現在、ウィーン市内唯一のベートーヴェン・ハウスとして一般公開されている。昔の城壁が残る高台の上に建っていることになり、下の道路から坂道を上っていくと、威風堂々とした館が出迎えてくれる。
   写真は、パスクラッティ家の外観。立派な石造りの建物で、当時の様子を偲ぶことができる。
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  その家の壁に掲げられているプレートで、ウィーンの歴史的建造物や史跡には必ずこの紅白のリボンが付されたプレートが備え付けられている。
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  ベートーヴェンが暮らした部屋。愛用のシュトライヒャー製作のピアノが置かれ、ペダルは5本仕様だ。
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   ベートーヴェンの部屋からの眺望。当時ははるかかなたまで見渡せたという。
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posted by 伊熊よし子 at 21:06 | 麗しき旅の記憶

ベートーヴェンゆかりの家 3

  ベートーヴェンの家の第3回は、交響曲第9番「合唱付き」が書かれた家。
  この家は、ウィーンの国立歌劇場前から電車で約1時間、タクシーに乗れば30分ほどの緑豊かな町、バーデンにある。ウィーンの森のはずれに位置し、昔から温泉保養地として有名だ。
  ベートーヴェンの時代には、豊かな自然とぶどう畑などが多く見られ、シューベルト、J.シュトラウスをはじめとする音楽家、グリルパルツァーらの文学者もこの地をしばしば訪れている。
  ベートーヴェンが「第九」の大部分を作曲した家(Rathausgasse10)は町の中心に現存し、彼が使用した2階の部屋は展示室となっており、見学可能である。ここには、ベートーヴェンの親しかった画家ヨハン・ダンハウザーによるベートーヴェンのデスマスクなどもある。
  1821年いっぱいは病気がちだったベートーヴェンも、翌年には再び健康を取り戻し、懸案だった「ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ)」の作曲にとりかかった。これは「第九」と並び称される大作で、後期のベートーヴェンが到達した高度な声楽的・器楽的様式が全曲を貫く傑作である。
  このころは「ディアベリ変奏曲」の構想もかたまりつつあり、多忙を極めた。この作品は、ベートーヴェン最大の変奏曲で、変奏技法の集大成ともいうべきものであり、J.S.バッハの「ゴルトベルク変奏曲」とともに、鍵盤楽器のための作品の最高傑作とされる。
  ベートーヴェンはオーバーデーブリングやテープリッツなどに湯治に行きながらもこれらの作品とほぼ同時に「第九」の筆も進めていった。
  そしていよいよバーデンに移った1823年8月後半からは、「第九」の創作に全身全霊を打ち込むようになる。完成を見たのは翌年1824年2月中旬。だが、初演にこぎつけるのがまた大変な作業となった。なにしろ、「第九」は規模の大きな作品。その練習も時間がかかり、また当時のウィーンではイタリア音楽が優勢で、ロッシーニのオペラがウィーンの聴衆の心をつかんでいた。
  ベートーヴェンはこのような状況のウィーンで「第九」と「ミサ・ソレムニス」の初演をするのを危惧し、ベルリンで行おうとしたが、それを知った友人や貴族たちがベートーヴェンを説得し、ついに「第九」はケルントナー劇場で演奏されることになった。
  熱狂的な支持を受けた「第九」だったが、指揮者のかたわらで指示を与えていたベートーヴェンは、曲が終わってもみんなの拍手が聴こえず、棒立ち。そんなベートーヴェンを聴衆の方へ向き直らせたのは、アルトのカロリーネ・ウンガーだった。
  作品の成功も名声も得たベートーヴェンではあったが、必ずしも経済的には樂ではなかったようだ。作曲や演奏をしている姿を見られるのを極度に嫌った彼は大変な引っ越し魔で、約35年過ごしたウィーンで、判明しているだけでも40軒をくだらない。
  そのなかで、このバーデンの家はたいそう気に入り、自然に囲まれたなかで創作が進められた。現在も、町の中心にある公園の高台から市内を臨む風景は、当時の面影を色濃く残している。
  ここは山が近いからか、結構風が強い。以前は、風光明媚で静かな町だったが、現在は市内に大きなカジノなども建設され、世界各地からの観光客が多く、にぎやかな都市に変貌した。
  写真は、バーデンのベートーヴェン・ハウス(ベートーヴェン博物館)。ちょうど改装工事中で、玄関の位置が変えられていたのにはびっくり。
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  その家の壁に掲げられているプレート。
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  ベートーヴェンが「第九」の第4楽章の合唱の部分の構想を練ったと伝えられている、ハイリゲンシュタットのメイヤーの家。現在は、ホイリゲになっている。
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  バーデンの公園に建つヨハン・シュトラウス2世とヨーゼフ・ランナーの像。
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posted by 伊熊よし子 at 21:54 | 麗しき旅の記憶

ベートーヴェンゆかりの家 2

  ベートーヴェンの家の第2回は、遺書が書かれたハイリゲンシュタットの家。
  ウィーン郊外のハイリゲンシュタットは、現在では多くの家が建ち並ぶ住宅街。ベートーヴェン時代ののどかな田園風景や田舎の静けさなどはすっかり姿を消しているが、やはりここは高級住宅街。どの家も敷地が広く、緑に囲まれ、立派な家ばかりだ。
  住宅街を抜けると、森のなかに「ベートーヴェン・ガング」と呼ばれるベートーヴェンの散歩道が残っている。ここには、いまでもあの交響曲第6番「田園」の発想を得たという小川は健在。ほんの一部の細い流れが見られるだけだが、ここだけは昔の面影を伝えていて、樹々の揺らぐ音や小鳥のさえずりも変わっていない。かたわらのベンチにすわると、どこからか「田園」の第1楽章が聴こえてきそうだ。
  だが、ベートーヴェンがハイリゲンシュタットの遺書を書いた家を訪れると、胸がキシキシと音をたてて痛むのがわかる。いまではこのあたりもホイリゲが増え、人々が陽気にワイングラスを傾けているが、ベートーヴェンの住まいとその周囲は、当時のままだ。
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  ベートーヴェンは22歳であこがれのウィーンでハイドンの弟子となり、作曲のかたわらピアニストとしても活躍。ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」、第14番「月光」、交響曲第1番、ピアノ協奏曲第1番などの代表作を次々に生み出していく。ベートーヴェンは29歳を迎えていよいよ交響曲作曲家としてのスタートを切ったのである。斬新で美しい音楽はウィーンの人々の心をとらえ、出版も開始された。
  しかし、このころから彼はだれにもいえない深い悩みを抱えるようになっていく。聴覚の異常である。いろいろな治療も効果はなく、悪化するばかり。ハイリゲンシュタットに移って交響曲第2番の構想を練るベートーヴェンは音楽家として致命的なこの病に耐え切れず、ついに1802年10月6日、弟たちに宛てて手紙をしたためた。これが有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」である。
  書き出しはベートーヴェンを人間嫌いの変人扱いする世間に対し、自分は耳が聴こえない悩みがあるのだと告白し、「私は喜びをもって死に急ぐ」と結んでいる。だが、ベートーヴェンは苦悩を吐き出したあと再び力強く生きる決心をしたため、この遺書は死後発見されることになった。
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  これ以後、ベートーヴェンの創作力は以前にも増して充実し、交響曲第3番「英雄」、第5番「運命」、第6番「田園」、歌劇「フィデリオ」、「ミサ・ソレムニス」、「ディアベリ変奏曲」という大作を完成させていく。
  ヴァイオリン・ソナタ第7番も、遺書が書かれたころに作曲されている。ロシア皇帝アレクサンダー2世に献呈された作品30の3曲のなかでも傑出した作品となっており、これから生まれる「傑作の森」と呼ばれる作品群の先駆け的な存在で、強い説得力と緊迫した曲想が身上だ。ただし、各楽章の主題は明快で親しみやすく、難解な感じや暗さはほとんど感じさせない。
  曲は交響曲第5番「運命」やピアノ協奏曲第3番、ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」などと同じハ短調で書かれ、ベートーヴェンの傑作を特徴付ける調性となっている。これはヴァイオリンとピアノが同等に対話し、豊かなデュオを繰り広げる作品。息の合ったヴァイオリニストとピアニストの共演が必要となる。
  写真は 展示されているベートーヴェンの髪の毛。
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  ハイリゲンシュタットでベートーヴェンが住んだ家を示す石版の地図。広場に掲げられている。
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posted by 伊熊よし子 at 16:51 | 麗しき旅の記憶
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