2017年03月23日
アンドラーシュ・シフ
コンサートが終わると、聴衆の鳴りやまぬ拍手に応えてアンコールが演奏される。その演奏会が聴き手の心に深い感動を与えた場合、音楽家は何度もステージに呼び戻され、アンコールも次々に演奏される。
しかし、アンドラーシュ・シフほど、本来のプログラムからアンコールまで、一気に演奏するピアニストはいないのではないだろうか。
昨夜は、東京オペラシティ コンサートホールでシフの「The Last Sonatas」と題されたピアノ・リサイタルが行われた。これはハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの「最後から2番目のソナタ」(3月21日)と「最後のソナタ」(3月23日)を演奏するプログラムで、昨夜は4人の作曲家の「最後から2番目のソナタ」が演奏された。
まず、モーツァルトのピアノ・ソナタ第17(16)番変ロ長調K.570、次いでベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番変イ長調作品110が演奏され、ハイドンのピアノ・ソナタ ニ長調Hob.XVI:51、シューベルトのピアノ・ソナタ第20番イ長調D959が続いて演奏された。
そのプログラムの徹底したこだわりもシフらしいが、演奏スタイルがまた個性的。なにしろ、4曲のソナタを休憩なしに演奏し、しかもひとつの作品が終わっても舞台袖に戻らず、ほとんど弾きっぱなしの状態。
さらにアンコールは5曲も登場したのである。
シューベルトの「3つの小品D946-2」、バッハの「イタリア協奏曲」は第1楽章を弾き、再度第2楽章と第3楽章が演奏された。そしてベートーヴェンの「6つのバガテルより作品126-4」、モーツァルトのピアノ・ソナタK545の第1楽章と続き、さらにシューベルトの「楽興の時より」第3番が披露された。
もう会場はやんやの拍手で、帰る人はほとんどいない。時間を見ると、9時20分を回っている。シフは午後7時からほとんど休憩なしに2時間20分以上もずっと弾き続けていたのである。
このプログラムはヨーロッパでも実践しており、ベーゼンドルファーのVC280というピアノを使用している。このピアノはシフのいかなる要求にも応えることができ、弱音の美しさと繊細さ、深々とした音色、そしてダイナミックでドラマティックな要素も含まれているようだ。
昨日は、各々のソナタの内容に合わせ、響きとダイナミズム、繊細さと奥深さなどを自由自在にピアノから引き出し、全体としては、豊かで自然でうたうような音色を響かせた。
シフの演奏を聴くと、いつも思うことがある。それは「脱力の極み」「自然体の奏法」「やわらかなタッチ」「絶妙のぺダリング」である。
モーツァルトはかろやかに天空に飛翔していくように、ベートーヴェンは大規模なフーガでドラマを編み出し、ハイドンは多彩な世界で音遊びをしているように、シューベルトは晴朗さの奥に無念と闇を潜ませるなど、さまざまな作風を自由闊達に紡ぎ出し、それぞれの作曲家の晩年の様相を抑制された響きで表現した。
なんとナチュラルな響きだろうか。完全に脱力ができているため、からだのどこにも余分な力が入っていない。それゆえ、紡ぎ出される音楽は、ごく自然に語るように、うたうように、感情を素直に吐露するように聴こえる。
シフは最後にピアノのふたを閉め、「アンコールはこれでおしまい」と合図し、聴衆はようやく異次元の世界から現実の世界へと引き戻された。
以前、シフにインタビューをしたとき、静かな語り口なのにユーモアたっぷりで、話が止まらなくなったことを思い出した。まさに演奏と同様である。
今日の公演評は、次号の「モーストリー・クラシック」に書く予定である。
写真は、プログラムの一部。
しかし、アンドラーシュ・シフほど、本来のプログラムからアンコールまで、一気に演奏するピアニストはいないのではないだろうか。
昨夜は、東京オペラシティ コンサートホールでシフの「The Last Sonatas」と題されたピアノ・リサイタルが行われた。これはハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの「最後から2番目のソナタ」(3月21日)と「最後のソナタ」(3月23日)を演奏するプログラムで、昨夜は4人の作曲家の「最後から2番目のソナタ」が演奏された。
まず、モーツァルトのピアノ・ソナタ第17(16)番変ロ長調K.570、次いでベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番変イ長調作品110が演奏され、ハイドンのピアノ・ソナタ ニ長調Hob.XVI:51、シューベルトのピアノ・ソナタ第20番イ長調D959が続いて演奏された。
そのプログラムの徹底したこだわりもシフらしいが、演奏スタイルがまた個性的。なにしろ、4曲のソナタを休憩なしに演奏し、しかもひとつの作品が終わっても舞台袖に戻らず、ほとんど弾きっぱなしの状態。
さらにアンコールは5曲も登場したのである。
シューベルトの「3つの小品D946-2」、バッハの「イタリア協奏曲」は第1楽章を弾き、再度第2楽章と第3楽章が演奏された。そしてベートーヴェンの「6つのバガテルより作品126-4」、モーツァルトのピアノ・ソナタK545の第1楽章と続き、さらにシューベルトの「楽興の時より」第3番が披露された。
もう会場はやんやの拍手で、帰る人はほとんどいない。時間を見ると、9時20分を回っている。シフは午後7時からほとんど休憩なしに2時間20分以上もずっと弾き続けていたのである。
このプログラムはヨーロッパでも実践しており、ベーゼンドルファーのVC280というピアノを使用している。このピアノはシフのいかなる要求にも応えることができ、弱音の美しさと繊細さ、深々とした音色、そしてダイナミックでドラマティックな要素も含まれているようだ。
昨日は、各々のソナタの内容に合わせ、響きとダイナミズム、繊細さと奥深さなどを自由自在にピアノから引き出し、全体としては、豊かで自然でうたうような音色を響かせた。
シフの演奏を聴くと、いつも思うことがある。それは「脱力の極み」「自然体の奏法」「やわらかなタッチ」「絶妙のぺダリング」である。
モーツァルトはかろやかに天空に飛翔していくように、ベートーヴェンは大規模なフーガでドラマを編み出し、ハイドンは多彩な世界で音遊びをしているように、シューベルトは晴朗さの奥に無念と闇を潜ませるなど、さまざまな作風を自由闊達に紡ぎ出し、それぞれの作曲家の晩年の様相を抑制された響きで表現した。
なんとナチュラルな響きだろうか。完全に脱力ができているため、からだのどこにも余分な力が入っていない。それゆえ、紡ぎ出される音楽は、ごく自然に語るように、うたうように、感情を素直に吐露するように聴こえる。
シフは最後にピアノのふたを閉め、「アンコールはこれでおしまい」と合図し、聴衆はようやく異次元の世界から現実の世界へと引き戻された。
以前、シフにインタビューをしたとき、静かな語り口なのにユーモアたっぷりで、話が止まらなくなったことを思い出した。まさに演奏と同様である。
今日の公演評は、次号の「モーストリー・クラシック」に書く予定である。
写真は、プログラムの一部。
